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日露の日常 - ゲンロン6、7のロシア現代思想 I, II

『ゲンロン6』、『〃7』の特集「ロシア現代思想 I」、「〃2」を読んだ。刊行から遅れて読むからできる贅沢。

もともとは『ゲンロン8』の「ゲームの哲学」を読む前に『ゲンロン6』の「遊びの哲学」を読もうと思っていたのだけれど、つい読み耽ってしまった。サッカーW杯2018の開催地だし、4月から始まった『Fate/Grand Order』第2部1章の舞台だし、ロシアが熱い。

前提知識がほぼゼロなので、わからないことだらけ。当然ついていくのが難しい(というかついていけていない)。本当に次のとおりで、ロシアについても驚きを通り過ぎて笑えるくらいわからない。
いまぼくたちは、同世代のアメリカ人が、ヨーロッパ人が、あるいはアジア人が、なにを考え、なにについて考えているのか、驚くほどわからなくなっている。
出典:『ゲンロン6』「受信と誤配のゲンロンのために」

それでも知らない/わからないなりに考えるところがあったので、2つ書いてみようと思う。

1つは、『ゲンロン7』の「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」と、先日読んだ『人工地獄 現代アートと観客の政治学』の比較。どちらも社会主義国家において活動の形をとったアートの歴史を振り返っている(『人工地獄』は「第五章 社会主義の内にある社会性」が該当)。中でも非公式芸術家グループ「集団行為」による「行為」の捉え方の違いについて考えてみる。

ちなみに『人工地獄』は他の国の活動の歴史も振り返ったあと、共産主義社会崩壊後のヨーロッパに舞台を移していくので、そこを「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」と比較してもおもしろそう。でも、手に余ることが火を見るよりも明らかなので、手を出しにくい。「第7章 旧西側体制: 一九九〇年代初期におけるプロジェクトとしての芸術」でスウェーデンとロシアで協働を試みて「コミュニケーションの完全崩壊」を引き起こしたプロジェクトが紹介されるくらいの断絶を越えて比べるなんてとてもとても。

もう1つは、「集団行為」による「行為」が気になった理由について。自問していたら、日本は「ポスト・ソヴィエト的」より「ソヴィエト的」なのでは? という自宅先に湧いた粗大ゴミのような疑問に行き当たってしまったので、「ご自由に持っていってください」と貼り紙をする代わりに書き出してみる。どうにかしようとバラしてみたけれど並べられず散らかっただけという感もある。


「集団行為」による「行為」の捉え方の違いについて、最初に最も大きいと思えた違いを示す。それは目論見の捉え方の違い。ここからズレがあるので、他についての解釈もドミノ式にズレていく。その違いを、『人工地獄』の捉え方を、「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」の言葉を借りて表現してみる。

「集団行為」による「行為」は〈内心の自由が存在することの確認〉を目論んでいて、〈「ソヴィエト的空間」の「プライベート化」〉は二の次だった。

この推測の前提となる「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」での「集団行為」による「行為」の捉え方を整理してみる。

そこでは「集団行為」による「行為」は、「オフィシャルに対するオルタナティブな場の創出を目論む行為」として捉えられている。(ただし注釈で「数ある「行為」をこのように一括りに捉えることは乱暴にすぎる。「集団行為」の試みは、正確には、公式芸術の観衆に対する非公式芸術の観衆を構築しようとしたというべきだろう」ともある。こちらの捉え方については後述)。

こう捉えて「なにをなすべきか?」というグループの《ペテルブルク創設》というアクションと比較しているので、その結果を表に整理してみる。

評価軸集団行為ペテルブルク創設特記事項
場所モスクワから電車で二時間くらいの「郊外」(野原)電車で20分くらいの「郊外」(住宅地)「集団行為」の方が中心から離れていることが強調される。
アクションの起点郊外街の中心部《ペテルベルク創設》は中心から郊外へ移動しながら行われた。
参加者招待された人に限る。不特定多数。途中からでも参加できる。
意味ノンセンス「新しいペテルブルクの礎を据える」こと
政治性直接的には帯びていない政治的目的を掲げている付随的な扱いだが、「意味」軸だけでは分かりにくいので並記。

このあたりを読んでいて「集団行為」の選択を解釈できず、ずっとひっかかっていた。「なにをなすべきか?」が「オルタナティブな場」として、「「パブリックなもの」を目指して」こう選択したのは自然に思えるのに対して、「集団行為」が「オフィシャルに対するオルタナティブ」を「あたかもプライベートなものの延長として構築」するためにこう選択する必然性がわからなかった。

一方、『人工地獄』にあたると、「行為」の場所について、こう記載されている。
セルゲイ・シータルが記すように、野原が選ばれた理由は、その何物にも交わらない美的本性の有利さにあるのではなく、「ただ『やむを得ない選択』――できる限りなにもなく、支配的な文化的言辞に侵されていない空間として」えらばれたのだった。
出典:『人工地獄 現代アートと観客の政治学』「第五章 社会主義の内にある社会性」

見も蓋もない書き方をすると、オフィシャルから逃れようとしたら、モスクワから電車で2時間かけて、監視者が潜めないような開けた場所まで出ないといけなかったということだと思う。

他も消去法的に選んだと仮定すると、起点が中心から離れていて、招待した人しか参加できなくて、ナンセンスな(傍目には政治性を帯びていない)ことをしていたのに肯ける。いつオフィシャルに目をつけられるかわからない状況で、中心近くから誰でも参加できる政治的なアクションを試みるのは自滅行為のように思える。

『人工地獄』の第五章終盤での「集団行為」を含む社会主義社会のアーティストに対する、この評とも整合する。
社会主義下で協働を模索するアーティストたちは、参加の公共圏(それは、個人の情動や消費の私的世界の対極にある)を立脚させようとするのではなく、むしろ(振る舞いや行動、解釈にあたっての)個人主義を築く足場を提供しようとしたのである。それが抵抗を示したのは、アーティストの判断力を、彼らがマルクス・レーニン主義の教条のうちでどこに居場所を見つけるかという関心にまで鈍らせてしまう、抑圧的で平板な文化領域であった。
出典:『人工地獄 現代アートと観客の政治学』「第五章 社会主義の内にある社会性」

「個人主義」ではなくて「個人主義を築く足場」が、「アーティストの判断力を、彼らがマルクス・レーニン主義の教条のうちでどこに居場所を見つけるかという関心にまで鈍らせてしまう、抑圧的で平板な文化領域」に抵抗を示したとと理解すると、「個人主義」さえ消去法で残ったのかもしれない。「集団行為」が志向していたのは、企画者の、「マルクス・レーニン主義」の中でも境界(=反対や風刺)でもない、〈内心の自由の行使〉あるいはそれを通じての〈内心の自由が存在することの確認〉だったんじゃないか、と妄想する。そう考えると、同じく第五章で紹介されている、観客のために主催者が現れたのではなく主催者のために観客が現れたという話とも整合する。

「集団行為」自身がどう言っているのか気になって、「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」の注15にある日本語サイト<集団行為> アクションのテクストによる記述・写真・映像・音源も見てみた。案の定ちっとも噛み砕けなかったけれど、「第一巻 序文」でアクションの主な目的が「主催者にとってのみ現実的意義を持つ」と言っているのが見つかった。
われわれがこの序文において、状況全体のうちのひとつの表面的な部分、すなわち〈観客のための〉、多かれ少なかれ美学の問題と関係している部分のみを検討していることをあらかじめ断っておく必要があるだろう。アクションの主な目的、つまり本質的に記号的ではないある精神的な経験を得ることと関係する、野で行為する主催者にとってのみ現実的意義を持つ内なる意味は、ここでは検討されない。
出典:A.モナストゥイルスキイ『郊外への旅』第一巻 序文 翻訳 上田洋子 Translated by Yoko Ueda

恣意的に探した結果だけど、詳細なアーカイヴ化が特徴に挙げられるグループが、「主な目的」は「本質的に記号的ではない」経験の獲得というのは、アーカイヴをデコイにしているようでおもしろい。だとしたら、探られたら痛いところを隠すために大量の文書を差し出しているわけで、官僚的に見えてなんだか皮肉だ。悪のアーカイヴならぬ偽悪のアーカイブみたいな(言ってみたかった)。

ともあれ自己満足くらいはできたので、このあたりで。


ようやく2つ目。

どうしてこんなに「集団行為」の捉え方にひっかかって、ここまで書いてようやく自己満足したかというと、「集団行為」と「なにをなすべきか?」とで前提となる「オフィシャル」が異なっていて、日本(に住んでいる自分の身の回り)は「集団行為」が前提とする「ソヴィエト的空間」の方が近いのでは? と感じているので。

この感覚について検証してみる。

両グループの「オフィシャル」が異なるのは、深く疑う必要なさそう。「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」と同じだし、ソ連とロシアは違う国だ(ソ連の埋葬に失敗しているのが、ロシア現代思想の背景にあるそうなので、別の国に生まれ変わったというより、記憶を保持して転生したみたいな想像をしてしまう。擬人化されたソ連が主人公の異世界系小説……あ、かなり近いのあった……。ネタかベタかわからないとはこういうことか……)。

落ち着いて『ゲンロン6』「コミュニズムの否定性」と合わせて読み解くと、こんな流れだと思う。
  1. ソ連時代は財産の私有が認められなかった。
  2. だからすべて国有ということになる。
  3. けれど国がすべてを責任をもって管理できていたわけでもない。
  4. そのため誰のものともつかない、ほったらかしの空き地や誰も住んでいない家などが発生した。
  5. それらはロシアになってからもまだ残っている。
  6. しかし、ロシアの官僚機構(ポスト・ソヴィエト的オフィシャル)や資本主義によって、消えつつある。

そして、ロシアの「ポスト・ソヴィエト的左翼運動」は、その空白をオルタナティブに置き換えようとしていると続く。

日本は「ソヴィエト的空間」の方に近いという感覚がどれくらい共有できそうか考えてみる。少なくとも「ポスト・ソヴィエト的空間」ではないだろう。日本には共産主義時代がなかったし、ロシアよりどっぷり資本主義だし、国土も狭いから誰のものともつかない空白もせまい。

空白が違う原理=過疎化で増えつつありそうだけれど、「郊外」のようなアクセス性がなさそう。東京から電車で2時間って、日帰り観光になりそう。そもそも日本における郊外とは? という話もあるし。都市の歴史とか設計思想にも興味がないでもないけれど、また話がそれつつあるので、この話題はここで終わり。

自分が「ソヴィエト的空間」として最初に思い浮かべるのは、「共同アパート」や「地下鉄の駅」いう物理空間ではなくて、実は情報空間の方。「共同アパート」で営まれる個人的日常にさえ「オフィシャル」が侵入していて(例えば盗聴)、それどころか「オフィシャル」な思考を内面化した非官僚が少なからず存在して、直接「オフィシャル」の目が届かなくても、彼らが代わりの目となっている。そんな空間。いわゆる密告社会。

TwitterはじめSNSでのやりとりも、うかつなことを言えば炎上、うかつじゃないことにもいわゆるクソリプ。SNSで言わなくても、公共的な場で喋ったことは偶然いあわせた他人に拾われかねない。オフィシャルな権力に着目すると、密告先がないという点は違うのだけれど、いわゆる晒しや電凸という物理的なリスクが大きくなっていると思うと、抑圧の強さがどんどん「ソヴィエト的空間」に近づいているように思う。そう考えると、知らない人がいるはずのないところで、万が一いても炎上しようがないようなナンセンスなことをしたらスッキリしそうな気もしないでもない。

だって、たとえば本屋にいたら本棚に檸檬が置いてあったとして、変なことしている人がいると置いているところの写真がアップされていて、「爆弾かもしれません」とかネタだかデマ言い出す人とか「不安を煽った」とか非難する人とかそれを見て「梶井基次郎も知らない人が増えた」と嘆く人とか「写真をアップさせてアカウントを特定するための罠かもしれないです」とか今更な指摘をする人とか出てきたり、「多分本屋でレモン落とした」っていう人と、「本屋にレモン落ちてたから、目立つように棚に置いといた」っていう人と、それらのツイートのキャプチャをツイートする人とそれをRTする人と「道端にネギ落ちてたりするんだからそれくらいあるだろう」って締めくくろうとする人と、これらをまとめようとする人まで出てきそうって想像できない?

できないか、考え過ぎか。正直、考え過ぎた。本屋の棚でレモンみても、ここまでは考えない。今はもう考えてしまったので、こんなこと考えたなぁって思い出しそうだけれど。

もうとっくに「ポスト・ソヴィエト的左翼運動の闘争」から主題がずれていて、どちらかというと『ゲンロン7』「サイバーパンクに未来はあるか」で『ザ・サークル』を挙げていたあたりの議論に近い。『ザ・サークル』を去年読んだときはまさかこんなひどいことにはなるまいと思っていたけれどなぁ。ディストピアは創作に留まっているけれど、あんなSF的な手段が無くても、相互監視の不安だけで十分ディストピア的というか、それはただの暗黒時代再来ではというか。


以上。もはや何が疑問だったかわからないくらい錯綜したまま、だれかパパッと全部持ってちゃってくれないかなあ、と無責任なことを思いつつ唐突に終わる。

疲れたので『ゲンロン8』はしばらく寝かせようかな……。

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