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住む住む - フランク・ロイド・ライト

『フランク・ロイド・ライト』をパラパラと眺めた。

日本だと帝国ホテルの設計で有名っぽい(疎いので知らなかったけれど(建物もうないし(ちなみに合わせてデザインされたカップなどが復刻している)))。

軽口はさておき、建築に込められた思想的な解説も足早に通り過ぎて、即物的に写真や図面を眺めていた。図面の方が視線が止まっていた時間が長かったのは、パターンがくっきり見えるからか。

あと、なんだかおかしかったエピソードが2つ。

一つ目は、建物だけでなく家具もデザインするようになったのだけれど、クライアントが引っ越すときに家具を持ち込んだことに落胆したという話(ワード・W・ウィリッツ邸)。屋外と外壁が合うように、内壁と家具を合わせたいということか。お金の問題もあるし個人邸なんだから好きにさせてやれよ、とも思う一方で建てる際に何をどう配置するか想定していたこともあるだろうとも思う。特定の時点にピーキーに最適化しちゃうと、住人の変化に合わせにくくなる気もするが。

二つ目は、美術館の壁や床を斜めにしたら多数の芸術家の署名付きで絵画によくないという書面が送られてきたという話。床は少しくらい傾いていても視線はおおむね水平を保つけれど、壁を斜めにしてしまうと歪んで見えそう。想像だけれど、縦方向に長い絵には、床から見上げた時に自然に見えるように、わざとパースを歪めている作品もありそうだし。

前提として歴史に名を残している偉大な人だという認識はあったので、こういう不和もあったのだなあ、と。人間なんだからそりゃそうだろうという話ではあるけれど。

『アート・オブ・デザイン』のイルス・クロフォードさん(インテリア・デザイナー)の話を思い出したり、いわゆるリノベとか居抜きのことを連想したりもする。そのあたりを起点に解像度を上げ下げすると、構成要素どうしの接点、平面としての視界への写り、光・エアフロー・匂い・音が広がり人が動く場というか空間、みたいにどんどんとりとめがなくなっていく。なくなった。

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