『新写真論 スマホと顔』を読んだ。
建造物を撮る写真家が「写真とは何か?」を考えた軌跡……でもなかった。『ゲンロンβ』の連載「スマホの写真論」に書き下ろしが加筆された本ではあるけれど、連載順と掲載順が異なっている。
本書の執筆を経ても「相変わらず人の写真を撮ることに興味がない」というのがおもしろい。人の写真を撮ることに興味がない自分が、この本を読んでも相変わらず人の写真を撮りたいとは思っていない。どうにも蚊帳の外にいる気がしてならない。
そもそも、外出を控えているため、スマホやカメラで写真を撮ることも減ってしまった。代わりにゲーム画面のスクショ(スクリーンショット)が増えている。これらについて、本書では「ゲーム画面保存も記念撮影になり得る」(p.147)や「スクリーンショットと写真撮影」(p.241)で触れられている。
ゲームのスクショについて考えてみると、ゲームのスクショを撮るシチュエーションは、大きく2種類あると思う。
ひとつはゲームクリア、ハイスコア、タイムアタック、レアアイテムドロップなど、証拠写真と重なるシチュエーション。とくにゲームクリアなど誰がクリアしても同じ画面になるにも関わらず、スクショを撮ってしまう。タイムを競うRTA(リアルタイムアタック)の動画になると「写真は誰のものか」(p.249)の〈「ぼく、桃太郎のなんなのさ」問題〉が生じる気がするけれど、ライバルが研究のために見るかも? 検証可能な形で残すアーカイブとしての意味が大きいようにも思う。
もうひとつは風景が実際に存在しない「記念写真」。本書では『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を取り上げて論じている。「重要なのは写真を撮りたくなる体験を提供する場所が風景として与えられているかどうかだ。ゲームにはそれがある」と書かれている。
少し膨らませて、ゲームが写真を撮りたくなる風景を提供できるようになった理由を想像してみると、まず3Dになったのが大きいと思う。3Dになると、アングルが発生する。ただこれだけだと、著者が「建造物の図面データを入手できれば満足なのかもしれない」のと同じように、データが手に入れば満足なのかもしれない。実際、単に3Dモデルを眺めるだけのモードが用意されているゲームもある。光源に対する影のシミュレートまでユーザがやるなら、ゲームというより3Dモデリングの世界か。
本書では「建造物の図面データ」に関して「著作権に対して「隔たり」によって撮影者の権利が確保されている」という話が展開されるのだけれど、ゲームはまた事情が異なる。写真を撮りたくなる3Dモデルは、開発者が作ったとは限らない。『Minecraft』のようなサンドボックス系や『Cities:Skylines』のようなシム系ではユーザが自由に配置した結果だし、『Elite:Dangerous』のように風景が自動生成される場合もある。自動生成で開発者がコントロールしているのは、部品・生成アルゴリズム・パラメータだ。風景自体ではないし、生成された風景を全てチェックするのも現実的でない。
強引にまとめると、スクショに残したいのは、自分で作った風景や自分がいるときに無数の条件が重なって発生した風景か。と考えると、それをアップするのは、他のプレイヤーが見たことがない自分だけの風景を見せたいからなのかもしれない。