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roots, family - HOME

写真展『HOME』に行ってきた。富士フイルムとマグナム・フォトの共同プロジェクトで、16人の写真家が、GFX 50S(CAPA CAMERA WEBによると1人はX100F)を使って制作した、「HOME」をテーマとした作品が展示されている。

自身のルーツ、パートナーや子供あるいは親それからペット、生まれ育った家や街など色々な形があって、自分の場合についても考えずにはいられなくなる。

自分の境遇との距離は当然バラバラなのだけれど、我が子を見守る親としての心とか、親の老いを直視したときの子としての複雑な気持ちとか、久し振りに生家/生地を訪れたときの感慨とか、ノスタルジックな思いも湧く。ゲオルギィ・ピンカソフという写真家の生家を撮った作品が印象深かった。『惑星ソラリス』への言及で物語的なイメージが大きく広がったからだと思う。

そんななか、唯一の日本人写真家の作品に、もっとも強く疎外感を感じたのはなかなかショッキングな体験だった。瀬戸内海の島々を空撮した作品で、厳島神社も抑えている。日本は美しい島国でそれを表現するには瀬戸内海だそうだ。親密さも、生活感も、個人の視点さえも見えなくて気持ち悪い。

「嗚呼、我が心の故郷 (ふるさと) 日本よ」というフレーズが脳裏によぎる。

余談だけれど、この方の作品、展示されていたのはカラーなのに本展写真集ではモノクロだった。どうしてだろう。

7/30 (月) まで代官山ヒルサイドテラスで開催中。詳しくは公式サイトへ。(珍しく開催期間中にエントリィ書けた)。

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