スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2020の投稿を表示しています

2020年に繰り返し聴いたアルバム

#AOTY2020 、 #2020年ベストアルバム 、 #ベストアルバム2020 。この手のハッシュタグから知らないアルバムを聴くのが年末・年始の楽しみの一つ。 自分もできればいいのですが、ベストアルバムを選出できるほど数を聴いていないし、それに耳がいいわけでもない。 でも、繰り返し聴くアルバムなら迷いなく選べる。というわけで、今年リリースされたアルバムから何回も聴いているアルバムをピックアップしてみた。 Music To Be Mudered By / EMINEM Music To Be Mudered By Side-B / EMINEM 先頭を飾るのはエミネムさん。Music To Be Mudered Byがシリアス。Side-Bは戯けた印象。Side-B (Delux Edition) のDisc 2がSide AなのでA→Bと地味に聞きづらい。 Dreamland / Glass Animals 次は今年初めて知ったGlass Animalsというアーティストの"Dreamland"。タイトルどおりフワフワとドリーミーな気分になれるので、延々と聴き続けられてしまう。 folklore / Talyor Swift everymore / Talyor Swift 最後はテイラー・スウィフト。穏やかな音と美しいメロディーが心地良いです。7月末の"folklore"がらわずか4ヶ月で"everymore"が出たのには驚かされました。おかげで"forklore"を去年のアルバムと勘違いして上げそびれるところだった。ちなみにNetflixで見られるドキュメンタリー『ミス・アメリカーナ』もオススメ。

石元泰博写真展/138億光年 宇宙の旅 at 東京都写真美術館

東京都写真美術館に行って 『石元泰博写真展』 と 『138億光年 宇宙の旅』 を見てきた。 『石元泰博写真展』のフライヤーに惹かれて行ってみたらちょうど『138億光年 宇宙の旅』が始まったところだったのでついうっかり。 『石元泰博写真展』 フライヤーに採用されているような幾何学的な構成の写真が多数見られて満足。とくに〈桂離宮〉がエレガント。2010年に写真集『石元泰博 桂離宮』が刊行されているのだけれど、まだ流通しているのかな? 純粋に静物だけで構成されるとグラフィックデザインとの差が消えていくけれど、偶然ぴったり収った瞬間を捉えた写真は見ていてとても気持ちいい。中でも 〈シカゴ 街〉1958-61年 (リンク先中程)がお気に入り。吹き飛ばされる新聞だかチラシだかはきっと左奥に向かっているんだろう、と感じられる(事実はともかく)。 展示後半の造形写真シリーズまでいくと、写真でそんなことしなくてもと思ってしまうけれど、それは今の技術を知っているがゆえの後知恵かもしれないとも思う。コラージュのように写真を素材とした作品ではなく、写真作品として見なされるギリギリまで加工を突き詰めていっているのは現代の方だろうし。 そうそう団地写真(タイトル控え忘れ)もあって、 (1) 大山顕 さん (@sohsai) を思い出したり。 『138億光年 宇宙の旅』 CMDR (ゲーム"Elite: Dangerous", 通称エリデン) にオススメ。特大サイズでプリントされたNASAや国立天文台が撮影した画像が目の前に広がるのは圧巻。キャプションの地球からの距離(光年単位)を見てジャンプ数換算するのはCMDRの嗜み。 こちらは写真撮影OK。記念に撮っていたのだけれど結局図録まで買ってしまった。 ご無沙汰しているのだけれど、エリデン熱が高まってきた。Beagle Point(Solからもっとも遠い星系)目指さないと。

『その裁きは死』の感想

ミステリィ小説『その裁きは死』を読みました。『メインテーマは殺人』に続くホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズ第2作。読み始めたら止まらなくなって、半日かけて一気読み。 今まで見えていた(と思っていた)全体像が、矢継ぎ早に伏線が回収されてドミノ倒しのようにガラリと変わるときの感覚がたまりません。 ホーソーンとホロヴィッツの関係がどうなっていくかも気になるところ。こちらはシリーズ(全10巻の予定)を通して語られるだろうから、ゆっくり追いかけていこうと思います。個人的には最後の最後まで牽制しあっていて欲しいところ。 </div<

写真とか絵画とか趣味の創作の話

ついなちゃんの喋ったむずかしいこと[1]が趣味で本を読んでいるトピックと重なっていたので、プラスアルファの情報や違う角度からの情報を補ってみます。別に写真に詳しくない人間が偏った知識で書いているので、学術的な裏付けなどは特にないです。 16~7世紀の画家カラヴァッジョみたいにそれを応用したとされる画家もおったし、19世紀のユトリロみたいに写真をモロパクr……ゲフンゲフン、大いに参考にした芸術家はんもいた…… そうした写真芸術との相克の結果として、後の印象派だったりキュビズムだったり、抽象絵画だったりに繋がっていく(続 — 【ついなちゃん】プロジェクト🗻公式(CV:門脇舞以)11/1は #ボイロついな誕2020 ❣ (@Tuina_chan_PJ) November 6, 2020 有名所だとフェルメールもカメラ・オブスキュラを使っていたと言われています[2]。その後、「写真のような」絵画がなくなったかというともちろんそんなことはなく、コロナウィルスの影響がなければ 超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 が渋谷Bunkamuraで開催されていたはずでした。 一方、写真は写真で芸術として認められていないという悩みを抱えていました。それを覆すため、19世紀後半に絵画のような写真を作ろうという動き〈ピクトリアリズム〉がありました[3]。ピクトリアリズムでは撮影後の加工も行われましたが、RAW現像やレタッチで仕上げられる現代のデジカメと重なるところがありおもしろいです。 写真芸術と言えば2011年にアンドレアス・グルスキーの作品が写真作品として過去最高額の430万ドルの値が付けられたというニュースを思い出します。これは加工が重ねられた写真らしくない(映り込みが取り除かれレンズの歪みがない)作品で、評価軸としての「らしさ」と「あえて」の違いについて考えたくなります(考えていない)。 それはそれとして、わざわざ美術館に足を運んで観賞するとなると人を動かすのは絵画の方で、フェルメール展が2018年10月5日~2019年2月3日の4ヶ月で68万の人を動かした[4]のに対して、2017年度の東京都写真美術館の年間来場者数が38万人でした[5]。 日本の浮世絵が当時のパリ芸術界でおおいに持てはやされたというのは… いわば新古典主義的リアルなデッサン力が珍重されてい

#おもしろ同人誌バザール 9で買った本

情報系同人誌の即売会 「おもしろ同人誌バザール 9」 に行ってきました。 「情報系」というのは「情報誌」の「情報」。IT系ではない(でもよい)。とくにジャンル制限がなくて要約できないので、軽い気持ちでTwitterハッシュタグ #おもしろ同人誌バザール や 出展者詳細9 を眺めて時間を溶かして欲しい。 自分は ついなちゃん 参加と知ってハッシュタグ見たら、往復できるくらい時間が溶けそうだったので行ってきました。 前置きはこれくらいにして、お土産紹介。 ◆ 『方相氏&追儺式ガイドブック二◯二◯年度版』恵方巻きコルネ 目当てのついなちゃん公式。方相氏衣装を描くための資料用に欲しかったやつ。イラストあり密着レポートありで期待以上の情報量。 ついなちゃん、今は ボイロ (その前の話は長くなるのでさておく。というか詳しくない)なんだけど、 Synthesizer V (≠ボカロ)になるための クラウドファンディングを12月に開催予定 。初めて知った方におかれましては、まずは気軽に 公式Tiwtter をフォローして時間を溶かして欲しい。 ◆ 『これからの民謡についての話をしよう』 民謡研究会ゆたちた 初手で買う本ではない気がするけれど、自分の興味のある「物語」の発生と非常に近いものを感じたので購入。 元来「民謡を歌う」とは、平民が自ら作り、自ら歌っている歌で、上手下手もない自由な歌なのである。 Synthesizer Vを触り始めたばかりの自分にとって心強い言葉。好きにやればいいのだよ。民謡関係ない感想で申し訳ない……。 あと民謡の種類に「道歌」があり『境界線上のホライゾン』シリーズの作中歌「通し道歌」の「道歌」これか! となってテンション上がる。民謡関係ない感想で申し訳ない……。 参考文献あるの自分には重要。 ◆ 『めちゃくちゃ美味しい油味噌を作れる本』 がちま家 表紙写真が美味しそうだったので、立ち読みさせてもらったら、作って食べたくなった。味噌おいしいよ、味噌。 ◆ 『中京圏のCM評論』 もしもしタウン関西 味噌と言えば愛知県。 イチビキの調味味噌 があればなんでも食べられる。ひたすらCMの寸評が並ぶ。あとがき見たら「情報番組などをローラーで探しました」とある。こういうよく集めたな系の本好きなのですよ。ちなみに2もある。 ◆ 『生物たちの生き様から我々は何を学べるか』

『ムーンシャイン』の「僕」と「私」――あるいは『円城塔「ムーンシャイン」について』について

短篇集 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』に収録されている、円城塔の「ムーンシャイン」についての感想。 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 とおもしろいくらい重ならなかったので、どれだけ違う読み方をしたか書いてみる。 文学の人が円城塔を詳しく検討するための材料も十分に提供出来たと思う。 出典: 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 ともあるし(文学の人ではないけれど。なお数学の人でもない。計算機科学の人が近いけれど、それでも遠いことには違いない。もしかすると人より計算機の方に近いかもしれない)。 なお、結末について言及するので、未読の方は先に読んでください。理解できなくても読めるし、読んでいると楽しくなってくるので。ラストはほんとうにあぁもう。 モンスター群に纏わる数とj-不変量に纏わる数に意外な関係がありそうだ――というのが数学の命題「ムーンシャイン予想」だが、理解できなくても(私は理解できてません)読めます。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 (前略)わからない部分もあるだろうが、ぜひ美しいラストまでたどり着いてほしい。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 と著者紹介も引用して「ムーンシャイン」を推しているけれど、他の円城塔作品でもいい。まだの方は触れてみて欲しい。「SFのエッジ作品を優先した次第」で収録されたこの作品よりやわらかい作品の方も多いのだから。 著者紹介でお勧めされているのが短篇集『シャッフル航法』。表題作なんか言葉の響きだけでも十分に楽しい。初出の『現代詩手帖』2015年5月号』の特集「詩×SF」で読んだときに詩だと思った。 たくさんの作品があって、それぞれに自分には思いも寄らない読み方があるのだろうと想像するとわくわくする。 ◆ 言いたいことは言いきったので、あとは蛇足。 読み方が重ならないのは当たり前で「理解できなさ」「わからなさ」への態度がまったく違う。わからないまま読んで「ほんとうにあぁもう」などと語彙力のない感想を持つ読み方がある一方で、 作中で使ってる数学が簡単かつ物理でも多用する馴染み深いものであったとはいえ、ここまで綿密に解体して深く理解出来たと強く感じられる作品ははじめ

「Fateは哲学」なのに哲学者サーヴァントが少ない理由あるいは現代思想業界では聖杯戦争が繰り広げられている

 一つ前のエントリーはあまりに暗かった。マジメに考え過ぎたので、観光客気分でもっといい加減なことを書く。この「観光客」というのも東浩紀さんの哲学のキーワードなのだけれど、本エントリではマジメなことは考えない。 ラノベっぽくなるかな? と思って、主張をそのままタイトルに据えてみた。これである。 〈「Fateは哲学」なのに哲学者サーヴァントが少ない理由あるいは現代思想業界では聖杯戦争が繰り広げられている〉 さて、みなさんは「Fateは哲学」という言葉を聞いたことがあるだろうか? なかったらググって欲しい。ごめん、ググったら「Fateは文学」だった[1]。でも『這いよれ!スーパーニャル子ちゃんタイム Vol. 2』でクー子が「運命(フェイト)は哲学もある……」と言っている[2]ので、ここでは「Fateは哲学」という主張していきたい。 「「Fate」って何?」っていう人は、どこから入ってもらうのがいいだろうか? 常に話題が供給されるからソシャゲ『Fate/Grand Order』だろうか? いやいや、やはり最初の『Fate/Stay Night』から……とは実は言えない(ここ伏線)。「Fate/Stay Night Heaven's Feel」まだわかってない……。コミックで追いかけていたら映画に追い抜かれたよ……。映画見に行ってないよ……。 ◆ 話を「「Fate」は哲学」に戻す。これはただクー子が言っているだけではない。『Fate/Grand Order』のイベント「徳川廻天迷宮 大奥」(通称「大奥イベント」)を思い出して欲しい。最近(二ヶ月前)に復刻されたばかりなので、ここまで読んでいるマスターはみなプレイしたことと思う。注目すべきは終幕のここだ(このためにマテリアル再読してスクショ撮った)。 そう、Fateの戦闘は概念のマウント合戦なのである。具体的にどのような戦闘が繰り広げられるかはここでは繰り返さない。 この概念のマウント合戦、実は現代思想業界で日夜繰り広げられている戦いの在り方でもある。事実、『新記号論』ではジークムント・フロイトのマスターは敵対サーヴァントであるジャック・ラカンについて、このような会話を繰り広げている。 「なぜでしょうね。これを読むとラカンはまちがっている、と言わざるをえない」 「明確にまちがっていますね。無意識は物表象の世界なのに、そ

『ゲンロン11』「「記号の場所」はどこにあるのか?」を読む前に - 『新記号論』

約一年半前の2019年3月に刊行された、ゲンロン叢書02『新記号論』をようやく読みました。出たばかりの『ゲンロン11』掲載の「その後」についての論考『「記号の場所」はどこにあるのか?――新記号論から西田幾多郎を読む』を読む前に、感想をここに書いておきます。 本書は、石田英敬さんによる全三回の講義録とその補論で構成されています。講義が開催されたのは2017年で会場に200人ほどネットでも2000人近くの方が聴講したそうですが、本書に出てくる聞き手は東浩紀さん一人で、つど要約・質問するので対談のように読めました。 実は対談形式はもともとあまり好まないのですが、可能な限り個人的好悪を差し引いて考えても、読んでいた暗くなってしまいました。以下、その原因を考えるので否定的な内容が続きます。苦手な人はブラウザバック推奨。 ブラウザバックしたいところですが、『ゲンロン』に期待しているところがあるので、今後どこまで期待を寄せ続けられるか考えるために書いていきます。 ◆ 暗くなった理由は、本書の狙いが成功しているように見えないからです。というわけで、東浩紀さんが「はじめに」に書いている狙いを確認します。 本書に収録された講義は、まずは「記号論」なる学問のアップデートを狙いとしている。 石田氏の目標は、個別「記号論」のアップデートにとどまるものではなく、(中略)大陸系哲学の伝統――日本ではおおざっぱに「現代思想」などと呼ばれているもの――を、二一世紀のサイエンスとテクノロジーを参照して新しいものに蘇らせ、ふたたび影響力のあるものにすること おおざっぱにいうと「現代思想をふたたび影響力のあるものにすること」が狙いだと書かれています。ここでは「現代思想」と書かれていますが、本文内では単に「哲学」あるいは「文系学問」「人文学」という言葉でこのあたりを指しているように見えます。このあとの引用部では、その点に注意してください。 冒頭で述べたとおり、この狙いが成功しているようには思えません。むしろ「現代思想」のタコツボ化を強く感じさせられました。本書で展開されているのは、現代思想好きのためのものであり、すでに影響下にある人にしか届きそうにありません。 少なくとも「現代思想」の私への影響力は低下しました。ただ、それでも絶対値としては強く残っていることは付記しておきます。最近読んだ『ジャック・デリダ

劇場要素ありボイロ実況動画のおもしろいところ

ニコニコ動画の投稿者/視聴者として、ボイロ系実況動画のこんなところがおもしろいという話をしているつもり。で、言いたいのは「劇場/茶番が多いボイロ実況もっと栄えて」。 おもしろさの分析に分析美学の成果を援用して分析してみた。援用元は 『ビデオゲームの美学』 および 『ゲームプレイ/ヤの美学:プレイ、プレイヤ、ペルソナ』 。 待って。ブラウザバック前に要約だけ読んでいって。 要約 1) ゲームプレイ動画の作成および視聴の対象として、映像化・ノベライズ・コミカライズあるいはテーブルトークRPGリプレイと同じように、ゲームプレイ動画の作者による創作が存在する。 2) ゲームプレイ動画作者による創作に固有の特徴は、それがゲームシステム内で実現されており、それを視聴者が了解していることである。 3) 創作を含むゲームプレイ動画と相性がよいジャンルは、ボイロ系実況プレイ動画である。 劇場/茶番が多いボイロ系動画もっと栄えて。 1. モチベーション 「そういう風に楽しめるならVOICEROID実況動画を観てみよう、投稿してみよう」と思う人がいてくれたらいいなと思う。 ではどう推せばいいのか?と考えたとき、自分は、もっぱらVOICEROIDやCevioの実況動画を観ていて、その中でも好き嫌いがある。好きな動画に共通の特徴を抽出し、投稿や観賞でどこを楽しんでいるのか言語化(記号化)してみよう、という試みがこのエントリ。 直接の必要性を越えて記号を使うのは、実践ではなく理解のためである。 出典: 『芸術の言語』 ついでについでに、次の動画をどうしようか悩んでいるので、方向性(の選択肢)を考える材料にしたい。 2. 分析に用いる用語 先行論文はリサーチしていないが、最近読んだ『ビデオゲームの美学』および『ゲームプレイ/ヤの美学:プレイ、プレイヤ、ペルソナ』から、援用する用語を導入する。このエントリよりおもしろいので未読の人は先に読もう。とは思うが、忘れっぽい自分のためにも必要な用語をここで導入しておく。 2.1 ゲーム内の情報 『ビデオゲームの美学』から、ゲーム内で提示される情報の分類を導入する。一つの情報源が双方を提示することが多いが、区別しておくと、ゲーム内の設定とゲームシステムを分けて評価できる。 〈ゲーム的内容〉:ゲームメカニクス(ゲームシステム)に関連する内容。 〈虚構的内容〉

最近読んだマンガ(ニンジャ・バットマンとか進撃の巨人とか)

最近読んだマンガについてつらつらと。  『ニンジャ・バットマン 上』『〃下』 同題の映画のコミカライズ。映画の魅力が動きや勢いだったので、それを出しづらい漫画ではどうなるのだろう? という不安もあったけれど、まったくの杞憂だった。巧みにアダプテーションされている。とくにバットマンとジョーカーの類似と対比が素晴らしい。クライマックスの「ニンジャ・バットマンだ!」へと至る流れが、マンガならではの静と動のコントラストとニンジャのかっこよさをより引き立てていて最高だった。 『血界戦線 Back 2 Back 8』 こちらも静と動というか動の大ゴマの迫力が素敵。ただ全巻から続く「災蠱競売篇」が登場人物が多いいうえにまだ終わらないのがちと辛い。話を進めるためかポンポン切り替わって、コマとコマの間のつながりが読み取り辛いことも。次が出たあとに7からそこまで読み返したい。クラウスさんと堕落王まで出てきて「ここから!」ってところなので。 『僕のヒーローアカデミア 28』『ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミア ILLEGALS- 10』 人気シリーズとそのスピンアウト。どちらも盛り上がってまいりました。特に『ヴィジランテ』。クライマックスが近づいている予感。このあとどうなっちゃうの? と気になるあまりジャンプ+で(しかもレンタルになった話飛ばして)読んじゃったら余計に先(だけでなく間の話まで)が気になる始末。落ち着こう、自分。 『進撃の巨人 32』 こちらも終わりが近づいているのをひしひしと感じる。いきなりマーレ編が始まったときはまったくついていけなかったけれど、驚くほどきっちりとつながってきてまた自分の中での盛り上がりが再燃してきた。 『ゆゆ式 11』『CITY 11』 最近、ストーリーものを欲しているのか、ちょっとこちらのノリについていけず。 『レキヨミ 1~3』 たまたま本屋で見かけて好みの表紙だと思ったら最終巻だった。というわけでまとめて。レキとヨミの姉妹のやりとりが好みだったので残念(手遅れ)。 『ヘテロゲニア・リンギスティコ ~異種族言語学入門~ 3』 前巻読み返してからじゃないと無理となった。ここまでに出てきた異種族言語を完全に忘れてしまって……。

日本・ゲーム・批評という文脈 - ビデオゲームの美学

『ビデオゲームの美学』を読んだ。『批評について: 芸術批評の哲学』、『芸術の言語』に続き、これで分析美学の本は3冊目。 本書が提案するのは、ゲームを(芸術として)批評するための枠組み。どんな本かは筆者がブログ記事 『『ビデオゲームの美学』はこんな本』 にしているのでスキップ。 すごくよかった。遊んだゲームについて考えるのに使いたいから、別にあんちょこが欲しい。目的、スコープ、テクニカルタームいずれも丁寧に記載されているおかげで難しい内容が書いてあるにも関わらず、飛躍が感じられないのだけれど。たまに差し込まれる筆者のゲーム愛も溢れた感じがして好きなのだけれど!  というわけで本書とは別にそういうのがあったらいいなと思う次第。哲学に興味ないけれど、ビデオゲームについて真剣に考える人が読むには、本書はハードル高いだろうし(リライトされているとはいえもともと博士論文)。先行議論を読まなくても、流れを追えるようになっているとはいえ。 ◆ 自分が読んでいた先行議論=『批評について: 芸術批評の哲学』と『芸術の言語』との関連にについて少し。 冒頭に上げたブログ記事で「図らずも本書の内容は、これら二つの古典の組み合わせになっている」と書かれているうちの一つが『芸術の言語』。先に読んでいたのはラッキーだった。虚構的内容(世界観とか設定とか)とゲーム的内容(平易な言葉で近いのはゲームシステム?)の区別とかシミュレーションの真実性とか、イメージしやすい。 なお、もう一つの『ハーフリアル』は未読。 それから批評のスタンスを大別すれば、『批評について: 芸術批評の哲学』と同じ意図主義(制作者の意図を重視する。反対にユーザがどう受け取ったかを重視するのが受容主義)だったのも、スムーズに読めた理由の一つ。と書いたけれど、もともと自分のスタンスが意図主義に当てはまっていたからか。目に付くのが(制作者の意図を想像しない)ユーザーレビューばかりなので、現状を肯定する受容主義の方が批判されにくいのでは? と邪推するくらいだし。 ◆ 上ではゲームのユーザーレビューと書いたけれど、ゲームに限らないし、ユーザーにも限らない批評一般について、少し愚痴および憤り。 『批評について: 芸術批評の哲学』の感想でも引用したけれど、ゲームに限らず日本の批評は海外でいう批評ではなくて哲学エッセイに相当するものという話がある

記号システムの特徴付け - 芸術の言語

『芸術の言語』を読んだ。 『批評について: 芸術批評の哲学』 に続き、これで分析美学に関する本は2冊目。 最近出た本だと思って手に取ったら初邦訳こそ2017年だけれど、原著が刊行されたのは1968年。内容の難しさを差し引いても、なお読みづらさを感じていたのはこれが原因か。 『批評について: 芸術批評の哲学』が 「批評とは理由にもとづいた価値づけ (reasoned evaluation) である」と主張していたのとは対照的に、この『芸術の言語』は序論で、「 価値の問題については付随的に触れるに過ぎない。批評の規範を提示することもない」と 述べている。著者がこの本で示そうとしているのは「記号システム」。非言語表現の哲学には以前から興味があったので期待が膨らむ[1]。 本書の目標は、記号の一般論に取り組むことである。   ここでの「記号 symbol」は、きわめて一般的で無色の語として使われている。記号は、文字、語、テキスト、絵、図表、地図、モデルなどを包括するものである。 序論 本書のタイトルにある「言語」は、厳密には「記号システム」に置き換えたほうがよい。 序論   記号とは何か、システムとは何か、そしてそれらはわれわれの知覚、行為、科学において――それゆえまたわれわれの世界の把握と創造において――いかに機能するのか。 第六章 芸術と理解 結果を先に吐いておくと、議論を追えなくて第四章の途中から最後の第六章にスキップしてしまった。そして、そのあとに続く、用語解説と概要でものすごく簡潔にまとめられていた。(第一、二、三章を読んでいたのが助けになったとはいえ)先に概要を読めばよかったというか、概要だけでお腹一杯というか。   ◆ 内容は概要を読めばいいので、ここでは第六章で琴線に触れた一文を。 直接の必要性を越えて記号を使うのは、実践ではなく理解のためである。 第六章 芸術と理解 そういうことか! と視界が一気に晴れ渡った感じがした。(おそらく)本書でいう例示/表現/再現の動機がその対象を理解するためというのがとてもしっくり来た。文章を書くにせよ、絵を描くにせよ、書いて/描いているうちに何がわかっていなかったかわかっていったり、新しく何かわかったりする経験に、ぴったりと当てはまる。勉強会でもっとも勉強になるのは講師という話とも整合する。 ◆ ここからは雑多な思いつき。

滞留と - 『竜と流木』

パニックミステリー小説『竜と流木』を読んだ。できるだけリスク管理していたうえで、想像を越える形で事態が悪化していく過程が描かれていて、息が詰まるような恐怖を味わえる。 太平洋に浮かぶ美しい島ミクロ・タタに固有の両生類ウアブを、絶滅の危機から救うために隣のメガロ・タタに移すところから物語が始まる。 端的に書くとこのとおりなのだけれど、考えなしに捕まえて別の場所に放すわけではない。些細なミスがきっかけになるパニックものもあるけれど、本作はそうではない。単体で人間への危害がないと判断している生物を、メガロ・タタの環境への影響を可能な限り小さくした形で、保護のために持ち込み管理しているにも関わらず、被害が出てしまう。 原因の特定の困難さ、判明してからの対策のあてのなさ、さらには問題が他国まで拡散するシナリオまで、現実味をもって語られており、主人公たちの感じているであろう閉塞感が自分にまで重くのしかかってくる。複数の要因――ウアバの生態、ミクロ・タタとメガロ・タタの地理的条件、現地住民と観光客の経済事情――が重なっているため、途方に暮れてしまう。 そこは物語なので、最後にきちんとオチがあるのだけれど、希望と不安が同時に感じられる幕引きだった。絶妙。

ひょうひょうと - 『批評について:芸術批評の哲学』

Youtube配信 【SF×美学】SF作家は分析美学者の問いにどう答えるのか? がおもしろかったので、その中で紹介されていた『批評について: 芸術批評の哲学』を読んでみた。   「はじめに」で著者が「批評についてのわたしの探求には規範的(normative)な次元がある(p.4)」と述べ、中心となる主張と議論の範囲を明らかにしているので、あまりひっかかることなく読むことができた。「規範的」ということは、適切な批評とはどんなものか主張しているということ。なお、対義語は「記述的」。この場合は実態がどうであるかを主張していることになる。 中心となる主張は「批評とは理由にもとづいた価値づけ (reasoned evaluation) である」という仮説。"evaluation"について補足しておくと、[訳註]にあるとおり、この本においては価値付け/評価の高低についてニュートラル。「性能評価 (performance evaluation)」に近く、高評価を含意している日本語の「◯◯を評価している」からは遠い。※ここに限らず[訳註]が充実していてありがたい。 そのため、著者は例えば下記を批評家と見なしていない(p.10)。おかげで読みながら浮かんできた「~の場合はどうなんだろう?」のような疑問の多くは、そういう話をするつもりはないんだろうとスパッと脇に退けておけた。 「催し物、本、映画選びに役立ててもらうために自分の好き・嫌いを報告する人」 「ただアレが良いとかコレが悪いとか言うだけの専門家」 「芸術作品をただ何かをあざ笑うためだけに使う物書き」 ◆ 「理由にもとづいた価値づけ(reasoned evaluation)」に話を戻す。 前段で、価値付け/評価は高低についてニュートラルと書いたけれど、それはそれとして「私の仮説によれば、ふつう鑑賞者たちが批評家に求めているのは、当の作品の中の見出しづらい価値を発見できるように助けてくれること、である」とも書かれていて、それは自分=鑑賞者にとってそのとおり。評価したけれど価値を発見できないという批評を読まされても困る(「やっぱり駄作だった」と溜飲を下げたいニーズはあるかもしれない)。 このコンテキストで話を進めると、鑑賞者が発見できるようになるためには、まず批評家のいう価値が共有できるものでなければならない。これ

『日本SFの臨界点 [恋愛篇]』/『〃 [怪奇篇]』/『カント・アンジェリコ』

短篇集『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』を読んだ。どれもおもしろかったのだけれど、一番他作品も読みたいと思ったのは「G線上のアリア」(高野史緒)。 「G線上のアリア」はでいわゆる歴史改変SFで、電話が存在する171X年(18世紀)ヨーロッパを舞台にしている(実際に電話が普及したのは19世紀半ば)。史実で電話網はインターネットに繋がっていくけれど、この後この世界はでどのように発展していくのだろう? といつまでも妄想を掻き立ててくれる。 編者の著者紹介によると、長篇『カント・アンジェリコ』の後日談でもあるとのこと。というわけでさっそく『カント・アンジェリコ』も読んでみた。「G線上のアリア」でネタが分かってしまっているにも関わらず、おもしろいのなんの。どっぷり嵌って読み耽ってしまった。 ◆ ところで、両作品とも〈去勢歌手(カストラート)〉が重要な役割を担っているのだけれど、『日本SFの臨界点[怪奇篇] ちまみれ家族』で冒頭を配置されている「DECO-CHIN」(中島らも)も身体的特徴と音楽が鍵になっている。第一印象はまったく異なるのだけれど、こうして同時に思い返していると、思考が内側に向いていく。これらの第一印象をまったく異なるものにした評価基準をたどり直そうとしていく。そして迷子になって途方に暮れている。 ◆ デビュー作『ムジカ・マキーナ』や短篇集『ヴェネツィアの恋人』にも手を出してみようか。『翼竜館の宝石商人』もおもしろそうだ。

忍び生き延び命の火 - ジャック・デリダ 死後の生を与える

『ジャック・デリダ 死後の生を与える』を読んだ。オカルトともとれるタイトルだけれど、哲学の本。 ジャック・デリダに関する本でよく扱われるのは「脱構築」「差延」(前期思想)だけど、この本が中心に扱うのは後期・晩期思想。前期も含めて「死後の生」というキーワードからまとめられている。 ここでいう「死後の生」は「生」であり「生き延び」。現世での話。天国だとか地獄だとか来世だとかそういう話ではまったくない。自分が思う自分は、常に対外的に死んでいるというか亡霊と化しているというか、そんなような話。 うまく言葉にできない思いがあって、それをなんとか言葉にしても、言葉から思いは失われてしまっていて、それでも他者はその言葉から思いを汲むしかないわけで。そして、そんな他者の中の自分として生きているのだから、自分が思う自分はどんどん殺されていっているわけで、ときにかすかに生き延びているように感じることもあるけれど、そもそも最初に確たる自分なんかあるのだろうか? 最初にあるのは、決して直接触れられないこの失われたような感覚なのではないだろうか? みたいな話だと思って読んでいる。 ◆ 以下、全体をざっと思い返した時の感想。 序論、導入部「差延としての死後の生」から第I部「政治的なものの亡霊的起源」の第3章「自己免疫的民主主義――来るべきデモクラシーの条件」までは、前期思想と後期思想のつなぎからはじまり、何が国や国民や民主主義を成立させているのか? という話。アメリカ独立宣言の署名から展開される話がおもしろかった。署名を印鑑に置き換えて考えるとどうなるだろうか。反復可能性が変わるように思うけれど。 第I部第4章「プロフェッションとしての言語行為」は、というか「労働」に関する議論は、いつもあまりピンと来ない。生活との距離が近いから、距離をおいて概念的に操作するのが苦手なんだと思う。言い悪いはともかく資本主義社会に生きているので、(賃金)労働を問題視してだけでなく社会保障のことも考えないと生活困っちゃうよなあなどと生活感あふれる感想ばかり出てくる。 第II部「人間と動物の生-死」(第5, 6, 7章)の、動物に人権的な権利を与えようというのは人間中心的という話はそのとおりだと思う。ここでは動物との関係だが、他者との関係というのは、このあとに繋がる。 第III部「来たるべき共同体への信」(第8,

ゲームの風景 - 新写真論 スマホと顔

『新写真論 スマホと顔』を読んだ。 建造物を撮る写真家が「写真とは何か?」を考えた軌跡……でもなかった。『ゲンロンβ』の連載「スマホの写真論」に書き下ろしが加筆された本ではあるけれど、連載順と掲載順が異なっている。 本書の執筆を経ても「相変わらず人の写真を撮ることに興味がない」というのがおもしろい。人の写真を撮ることに興味がない自分が、この本を読んでも相変わらず人の写真を撮りたいとは思っていない。どうにも蚊帳の外にいる気がしてならない。 そもそも、外出を控えているため、スマホやカメラで写真を撮ることも減ってしまった。代わりにゲーム画面のスクショ(スクリーンショット)が増えている。これらについて、本書では「ゲーム画面保存も記念撮影になり得る」(p.147)や「スクリーンショットと写真撮影」(p.241)で触れられている。 ゲームのスクショについて考えてみると、ゲームのスクショを撮るシチュエーションは、大きく2種類あると思う。 ひとつはゲームクリア、ハイスコア、タイムアタック、レアアイテムドロップなど、証拠写真と重なるシチュエーション。とくにゲームクリアなど誰がクリアしても同じ画面になるにも関わらず、スクショを撮ってしまう。タイムを競うRTA(リアルタイムアタック)の動画になると「写真は誰のものか」(p.249)の〈「ぼく、桃太郎のなんなのさ」問題〉が生じる気がするけれど、ライバルが研究のために見るかも? 検証可能な形で残すアーカイブとしての意味が大きいようにも思う。 もうひとつは風景が実際に存在しない「記念写真」。本書では『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を取り上げて論じている。「重要なのは写真を撮りたくなる体験を提供する場所が風景として与えられているかどうかだ。ゲームにはそれがある」と書かれている。 少し膨らませて、ゲームが写真を撮りたくなる風景を提供できるようになった理由を想像してみると、まず3Dになったのが大きいと思う。3Dになると、アングルが発生する。ただこれだけだと、著者が「建造物の図面データを入手できれば満足なのかもしれない」のと同じように、データが手に入れば満足なのかもしれない。実際、単に3Dモデルを眺めるだけのモードが用意されているゲームもある。光源に対する影のシミュレートまでユーザがやるなら、ゲームというより3Dモデリングの世界か。 本書で

狙撃手リーパー ゴースト・ターゲット

スナイパーものが好きなので手に取ったみたけれど、いまいち合わなかった。話の筋はおもしろく先が気になるけれど、読み進めていったら周到な伏線があったわけでもなかった。しかも、そのときそのときで新しい情報が出てくるので、途中から無理矢理飲み込んだみたいに読み切った。 訳文にも違和感があったので、ターゲット読者層はもっと上の世代だったかな? 気になったところだと、ゲームタイトル"Call of Duty"を《義務履行》と書いて「コール・オブ・デューティー」とルビを振っていたりしたし。

カササギ殺人事件、ウィッチクラフト・アカデミア、モンスター娘ハンター、ゲンロン10.5

『カササギ殺人事件』  イギリスのミステリ。「アガサ・クリスティへの愛に満ちた完璧なるオマージュ・ミステリ!」と歌われているけれど、アガサ・クリスティに詳しくない自分でも十分楽しめた。 編集者の視点での作中作『カササギ殺人事件』を巡る謎と、作中作『カササギ殺人事件』の謎の二重構造。おもしろい構造をしている。下巻を読み始めた時、本を間違えたと思ったほど。 ◆ 『ウィッチクラフト・アカデミア』1, 2  ラノベ。『這いよれ!ニャル子さん』と同じ作者の作品。だけれど作風はずいぶん違う。ウィッチクラフトという箒レースがある世界で、その専門学科に飛び込んだ少年が主人公。ウィッチクラフトは小さくて軽い方が有利で、そもそも適性がある男性がまれということで、小柄な男の子が女の子に囲まれるという状況に必然性があるのが好印象。最後はレースで語ることになりスポーツものの熱さが見られる。ウルスラがまだまだ謎過ぎるので、シリーズに期待。 ◆ 『モンスター娘ハンター』1, 2  ラノベ。『モンスター娘のお医者さん』がおもしろかったのでこちらも読んでみたけれど、どうも入り込めない。もうちょっと読み続けよう。ここまでで主要キャラが集まって次あたり大きな展開がありそうな気もするし。 ◆ 『ゲンロン10.5』  ゲンロン会員限定の『ゲンロン』増刊号。雑誌というかムックというかそんな感じ。『スマホ写真論』を読む前に、と思ってようやく(お察しのとおり、メルマガは未読の山となっている)。 「正義は剰余から生まれる(國分功一郎+東浩紀)」  読んでいてトム・デマルコの『ゆとりの法則』を思い出した。「剰余」あるいは「ゆとり」や「あそび」がどんどん小さくなっていると実感する。   「いまここ」で他人にどう解釈されるかにおびえながら生き、ますます「いまここ」で正しさが判明するコレクトネスにすがるようになる。  というところでは、偉い人がOKを出すかどうかに拘泥して資料を修正しているうちにコンテンツがどんどんよくわからなくなっていく様を思い出したり。  ふと、思ったのだけれど、コンテンツがよくわからなくなるのは、ここで議論があったとおり、コレクトネスは意見を変えないので、偉い人の意見とコレクトネスの混合物になるからかもしれない。  ※ここでのコレクトネス(正当性)は、デ

ここ半年に読んだ本

ゲームしてVOICEROID実況動画を作り始めたら、本を読む時間が削れてしまった。ゲーム自体はもちろん、話を考えるのも楽しくて。 それでもちまちま読んでいるので、簡単に思い返してみる。まずは小説。 ◆ GENESISシリーズ 境界線上のホライゾン NEXT BOX 序章編 XI(下)で完結した〈境界線上のホライゾン〉シリーズの続編。 カクヨムで連載中だけれど、自分は紙でまとまって読む方が合う。 十本槍の違った姿が見られて、朱に交われば赤くなるというか、血は水よりも濃いというか。血じゃなくて毛か。 EDGEシリーズ 神々のいない星で 僕と先輩の惑星クラフト (上・下) こちらは新シリーズ。これもカクヨムで連載中だけれど(以下略)。 主人公らしからぬ感じの主人公の一人称が、このままで大丈夫か? と目が離せない。 錆喰いビスコ5 大海獣北海道、食陸す 話としては4の続き。今回も熱い。 なめらかな世界と、その敵 SF短篇集。意外と叙情的だった。表題作がいちばん好み。 裏世界ピクニック4 SF百合ホラーの続き。日常から地滑りで世界がおかしくなる怖さよ。とくに宿のエピソードが如実に想像できてしまって、つい思い出してしまう。 大絶滅恐竜タイムウォーズ 大進化どうぶつデスゲームの続き。 三体 話題になった中国SF。ばっちりエンターテインメントしてた。続刊の邦訳が待ち遠しい。 書架の探偵 SF。図書館で著者がクローンとして存在する世界の物語。メタレベルでもおもしろい重層的な造り。 神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned? キャサリンはどのように子供を産んだのか? How Did Catherine Cooper Have a Child ? WWシリーズ2,3冊目。SFミステリ。ミステリ? アンチミステリィかも。本筋よりもグアトの思考・発想に触れられるのがありがたい。 元年春之祭 、 雪が白いとき、かつそのときに限り 中国ミステリ。ある種の危うさがたまらない。 グッド・オーメンズ 英国ジョーク。 ◆ こっから文庫とか一般書籍。 ◆ 生命の星の条件を探る 、