『ジャック・デリダ 死後の生を与える』を読んだ。オカルトともとれるタイトルだけれど、哲学の本。
ジャック・デリダに関する本でよく扱われるのは「脱構築」「差延」(前期思想)だけど、この本が中心に扱うのは後期・晩期思想。前期も含めて「死後の生」というキーワードからまとめられている。
ここでいう「死後の生」は「生」であり「生き延び」。現世での話。天国だとか地獄だとか来世だとかそういう話ではまったくない。自分が思う自分は、常に対外的に死んでいるというか亡霊と化しているというか、そんなような話。
うまく言葉にできない思いがあって、それをなんとか言葉にしても、言葉から思いは失われてしまっていて、それでも他者はその言葉から思いを汲むしかないわけで。そして、そんな他者の中の自分として生きているのだから、自分が思う自分はどんどん殺されていっているわけで、ときにかすかに生き延びているように感じることもあるけれど、そもそも最初に確たる自分なんかあるのだろうか? 最初にあるのは、決して直接触れられないこの失われたような感覚なのではないだろうか?
みたいな話だと思って読んでいる。
◆
以下、全体をざっと思い返した時の感想。
序論、導入部「差延としての死後の生」から第I部「政治的なものの亡霊的起源」の第3章「自己免疫的民主主義――来るべきデモクラシーの条件」までは、前期思想と後期思想のつなぎからはじまり、何が国や国民や民主主義を成立させているのか? という話。アメリカ独立宣言の署名から展開される話がおもしろかった。署名を印鑑に置き換えて考えるとどうなるだろうか。反復可能性が変わるように思うけれど。
第I部第4章「プロフェッションとしての言語行為」は、というか「労働」に関する議論は、いつもあまりピンと来ない。生活との距離が近いから、距離をおいて概念的に操作するのが苦手なんだと思う。言い悪いはともかく資本主義社会に生きているので、(賃金)労働を問題視してだけでなく社会保障のことも考えないと生活困っちゃうよなあなどと生活感あふれる感想ばかり出てくる。
第II部「人間と動物の生-死」(第5, 6, 7章)の、動物に人権的な権利を与えようというのは人間中心的という話はそのとおりだと思う。ここでは動物との関係だが、他者との関係というのは、このあとに繋がる。
第III部「来たるべき共同体への信」(第8, 9, 終章)は、再び人間どうしの関係性についての哲学に戻ってくる。部分部分はそんなに疑問に思わなかったのだけれど、振り返るとまったく掴めていないことに気がつく。序論、導入部、1~3、8、9、終章と読み返すのがよいかもしれない。
◆
こうして後期思想に触れると、難しいけれどアプローチは一貫していてシンプルですらある。Simple is not easyを思い出す。