約一年半前の2019年3月に刊行された、ゲンロン叢書02『新記号論』をようやく読みました。出たばかりの『ゲンロン11』掲載の「その後」についての論考『「記号の場所」はどこにあるのか?――新記号論から西田幾多郎を読む』を読む前に、感想をここに書いておきます。
本書は、石田英敬さんによる全三回の講義録とその補論で構成されています。講義が開催されたのは2017年で会場に200人ほどネットでも2000人近くの方が聴講したそうですが、本書に出てくる聞き手は東浩紀さん一人で、つど要約・質問するので対談のように読めました。
実は対談形式はもともとあまり好まないのですが、可能な限り個人的好悪を差し引いて考えても、読んでいた暗くなってしまいました。以下、その原因を考えるので否定的な内容が続きます。苦手な人はブラウザバック推奨。
ブラウザバックしたいところですが、『ゲンロン』に期待しているところがあるので、今後どこまで期待を寄せ続けられるか考えるために書いていきます。
◆
暗くなった理由は、本書の狙いが成功しているように見えないからです。というわけで、東浩紀さんが「はじめに」に書いている狙いを確認します。
本書に収録された講義は、まずは「記号論」なる学問のアップデートを狙いとしている。
石田氏の目標は、個別「記号論」のアップデートにとどまるものではなく、(中略)大陸系哲学の伝統――日本ではおおざっぱに「現代思想」などと呼ばれているもの――を、二一世紀のサイエンスとテクノロジーを参照して新しいものに蘇らせ、ふたたび影響力のあるものにすること
おおざっぱにいうと「現代思想をふたたび影響力のあるものにすること」が狙いだと書かれています。ここでは「現代思想」と書かれていますが、本文内では単に「哲学」あるいは「文系学問」「人文学」という言葉でこのあたりを指しているように見えます。このあとの引用部では、その点に注意してください。
冒頭で述べたとおり、この狙いが成功しているようには思えません。むしろ「現代思想」のタコツボ化を強く感じさせられました。本書で展開されているのは、現代思想好きのためのものであり、すでに影響下にある人にしか届きそうにありません。
少なくとも「現代思想」の私への影響力は低下しました。ただ、それでも絶対値としては強く残っていることは付記しておきます。最近読んだ『ジャック・デリダ 死後の生を与える』はとてもよかったです。
◆
狙いと結果について確認したところで原因を分析していきます。ここでは大きく2つ挙げますが、どちらも自分には致命的な問題に思えます。
最大の原因は、本講義の議論がまさに現代思想の影響力が低下した原因を再演しているところです。現代思想の影響力が低下した原因は、大陸系哲学の伝統と分析哲学の比較から見て取れます。影響力が低下した原因と思われる特徴を4つ分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告 森功次 / 美学者から引用します。ここでは参照しやすくするために順に(A), (B), (C), (D)とします。
(A) 大陸系哲学によく見られる「同じ語の使用を避けて、できるだけ言い換えましょう」といった論述スタイル
(B) 哲学史では、大哲学者が二つ、三つ批判的なやり取りをしただけで「論争」と呼ばれたりすることもある
(C) 分析哲学では、ある論者の有名なフレーズのみを取り出してきて批判する、ということはほとんど見られない
記号が言語の問題ではないとすれば、なんの問題か。それは文字です。記号が文字の問題であることは、つぎのような言葉からもわかります。写真(フォトグラフ photograph)は「光 photo-を書く文字」、「レコード(phonograph)」は「音声 phono-を書く文字」、映画(シネマトグラフ cinematographe)は「運動 cinemato-を書く文字」です。(前略)これらはみな、語尾に「グラフ graph」という言葉がついています。グラフというのは(中略)。つまりこれらの呼称が示しているのは、これらはみな一種の文字であるということです。
「フロイトへの回帰」ということを言ったのは、ジャック・ラカンです。ぼくがこの有名な言葉をあえてここで使うのは、ラカンに対するある種の意義を唱えようとしているからです。今日は、フロイトに帰ることによって、ラカンの有名なテーゼ「無意識は言語のように構造化されている (中略)」とは異なる帰結を導いてみたいと思います。
(D)は上記引用部から読み取れると思います。フロイトもジャック・ラカンも大御所の哲学者です。こうした思想と哲学者の強結合は、現代思想の影響力を小さくする構造だと思っているので補足します。
思想と哲学者が強結合していると、「巨人の肩に乗る」ために思想史を追いかける必要があります。東浩紀さんは「「思想史の引き受け直し」はとても重要だと感じます」と言いますが、思想を学ぶために思想史を辿り直す必要がある限り影響は小さくなり続ける一方だと思うのです。理由は簡単で「巨人の肩に乗る」ことができなくなるからです。いや、これこそ人文学だ! と言われたら、新たに学ぼうと言う人は減っていってしまうでしょう。
少なくとも私への影響力は小さくなる一方です。この詰まらなさは自分の浅学に起因しているのでしょうが、そこを掘り下げるモチベーションが下がるのです。そこに多大な労力を追いかけるのは現実的ではないのです。
◆
まだ暗い話は続きます。暗いまま終わるので気をつけてください。
ここまで、1)現代思想が普通の学問と異なっていること、2)本書でもその差が出ていること、3)特に思想と思想史の強連結は影響力を小さくする、ということを言ってきました。
ここからは、フロイトもソシュールもラカンも詳しくないなりに本書の議論を追ってみて、見えてきた問題について書いていきます。
本書の議論について自分の理解を箇条書きにすると、
- 記号を文字の問題ととらえ直す
- デジタルメディアの中で文字を読む中でどういう意識や文化環境を作り出していくのかを人文学的に研究するため、ニューロサイエンスと接続する
- そのために哲学が科学と分かれた時点(本書では一九〇〇年)に遡り、神経学者としてのフロイトや論理学者・数学者としてのフッサールを、現代の問題意識から再評価する
- 再評価から得られた現代に通じる心理モデルを活用して記号論を更新する
こんな流れだと理解しています。
この議論の流れで1はまだ受け入れられます。「graph」がついているからという理由ではないし、「記号」や「文字」の語用が曖昧なのも気になりますが。
2は袋小路に見えます。(A)~(D)があるままでは自然科学とコミュニケーションがとれるように思えません。自然科学の成果を誤解に基づいて適用しそうな危うさがあります。現代思想の成果は自然科学は成果として受け取りそうにありません。
では、現代思想を(A)~(D)を解消して普通の学問にしましょう、というと人文学とは?という問題に突き当たる。そうすると現代思想ではなく、分析哲学になってしまう。しかし、東浩紀さんによるとこういう状態です。
哲学はどんどん「文系化」していった。むろん、英語圏には分析哲学があり、認知科学と近い「理系的」な哲学もあった。けれど、その両者はほとんど交流なくいまにいたるわけです。
ここまで来ると現代思想とは?という気持ちになってきます。
3, 4については、現在に通じる心理モデルを一九〇〇年に遡ってから作る必要性を感じられません。現代思想をつなげるなら、いちど思想史から離れて現在に起こっていることから心理モデルを作り、それと思想史をつなげるアプローチもあるのでは?と思ったけれど、それは現代思想というより社会学の役目かもしれません。実際、第3講義ではタルドの社会学が重要な役割を果してるようです。他にダマシオの脳神経科学、パースの記号論が出てきて、それらをつなぐ役割をスピノザの哲学が果たしているようです。このあたりはついていけませんでした。
やはり現代思想とは?という気持ちになってきます。
◆
やっと終わります。終われます。接続した結果がすでにどこかでやられていそうなのが辛い。最後まで現代思想とは?という気持ちになりました。
実際、はじめて分析美学の本を読んだこともあって、大陸哲学/分析哲学という括りだと分析哲学の方がおもしろそうだと感じています。このエントリの書き方も強く『批評について: 芸術批評の哲学』に影響されています。ちゃんと読めませんでしたが『芸術の言語』はまさに記号学の話ではないでしょうか。
文系/理系でいうと理系だったからかこういう書き方の方が馴染みます(出来不出来は別として)。ただこのスタイルでは書きにくいことを考えることもありますし、人文系のスタイルも使えなさそうだし、駄文の先が見えません。
『ゲンロン 11』は読むし(でも本書のその後が「」というサブタイトルなので警戒度高め※)、『ゲンロン』は読み続けるだろうけれど、それは問題にしていることに関心がありかつ記事の中におもしろいものがあるからで、『ゲンロン』は雑誌なのでそれでよしとするとして、ゲンロン叢書の読み方はだいぶ考えさせられています。
※『ゲンロン11』の『「記号の場所」はどこか――新記号論から西田幾多郎を読む』を読んだが、感想ツイートに留める。ブログのエントリにはしない。