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『ムーンシャイン』の「僕」と「私」――あるいは『円城塔「ムーンシャイン」について』について

短篇集 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』に収録されている、円城塔の「ムーンシャイン」についての感想。

円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道とおもしろいくらい重ならなかったので、どれだけ違う読み方をしたか書いてみる。

文学の人が円城塔を詳しく検討するための材料も十分に提供出来たと思う。 出典: 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道

ともあるし(文学の人ではないけれど。なお数学の人でもない。計算機科学の人が近いけれど、それでも遠いことには違いない。もしかすると人より計算機の方に近いかもしれない)。

なお、結末について言及するので、未読の方は先に読んでください。理解できなくても読めるし、読んでいると楽しくなってくるので。ラストはほんとうにあぁもう。

モンスター群に纏わる数とj-不変量に纏わる数に意外な関係がありそうだ――というのが数学の命題「ムーンシャイン予想」だが、理解できなくても(私は理解できてません)読めます。出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介

(前略)わからない部分もあるだろうが、ぜひ美しいラストまでたどり着いてほしい。出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介

と著者紹介も引用して「ムーンシャイン」を推しているけれど、他の円城塔作品でもいい。まだの方は触れてみて欲しい。「SFのエッジ作品を優先した次第」で収録されたこの作品よりやわらかい作品の方も多いのだから。

著者紹介でお勧めされているのが短篇集『シャッフル航法』。表題作なんか言葉の響きだけでも十分に楽しい。初出の『現代詩手帖』2015年5月号』の特集「詩×SF」で読んだときに詩だと思った。

たくさんの作品があって、それぞれに自分には思いも寄らない読み方があるのだろうと想像するとわくわくする。

言いたいことは言いきったので、あとは蛇足。

読み方が重ならないのは当たり前で「理解できなさ」「わからなさ」への態度がまったく違う。わからないまま読んで「ほんとうにあぁもう」などと語彙力のない感想を持つ読み方がある一方で、

作中で使ってる数学が簡単かつ物理でも多用する馴染み深いものであったとはいえ、ここまで綿密に解体して深く理解出来たと強く感じられる作品ははじめてだったので大変勉強になったし、楽しかった。 出典: 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道
という感想を持つ読み方もあるという話。「作品概論」で「とんでもないたわごとでありながら、元ネタであるムーンシャイン理論・モンスター群と同じ理解不可能性に由来する崇高な美しさを湛える」とあるし、冒頭のブログでも「検討 > 理解不可能性」だが「理解出来なくともまったく問題はなく、むしろそれでこそ読者は美しさを楽しめる、という構造になっている」とあるのだけれど、「感想(追記分)」でこうなっているのが意外に感じた。

モンスター群の位数(って何?)の理解できなさに触れておく。その数「八十恒河沙(中略)八十億」は「他の何物からも組み上げられることのない、巨大に過ぎて想像を絶する基本要素にして群論的アルファベットの最後の一文字(p.323)」であり、「その彼(引用註:数字を風景として見ることのできたロンディニウムのダニエル)にしてからが、あまりに巨大な数に対しては、色がぼやけて判別が困難になることを自伝の中で報告している(p.318)」くらい。

きっと「八十恒河沙(中略)八十億」は「八十恒河沙(中略)八十億」であり、それを文章構造にたとえるなら文章でも節でも段落でも文でも文節でもなく単語ですらなく文字なのだけれど、人間の脳はそんなばかでかい文字からなる数学的秩序を把握できるようにはできていない、という話だろう。きっと多分もしかしたら。

「もしかして、数学的秩序に恐ろしい精度をもってそのまま一致している共感覚者。あの娘は、そういう種類の生き物だったということだろうか」(p.318)

と言われる「彼女」にとっては、「目の前にあるので見ることができ、聞くことができ、触れ、香り、舐め回すことが可能であり、気になった部分があれば、そこへ行って実地に観てみれば良い。それだけのこと(p.302-303)」なのだけれど。


「再読・精読によるさらなる補足解説」のラストシーンの解釈や「感想(追記分)」もほとんど重ならない。自分の解釈はうまく言葉にできないけれど、「生命の理解」と表現されるような壮大なものとしては読めない。
今活動している十七は、私が認識しているところの十七の性質の記述の網目でもある。(p.p.331-332)
十七を通じて(引用註:「僕」の世界から「私」の世界に)もたらされた一つの知識。(中略)。十七が一つの数字でありながら計算機として構成され、私として認識されうること。(p.332)

私が計算機にはできないことを実行していると感じる以上、そこには蠢く何物かがあり、 まだ何かが残されている。それとも取り残されているのが、この私だ。(p.333)

私はそれをただ、自分の言葉で語り直そうとするにすぎない。 (p.333)

私以外の誰にも、これを試みることは叶わない。理由はそれで充分だろう。(p.334)

このあたりを読むと「私」はもっとパーソナルでエモーショナルなものを求めているように感じる。

その先には、口に出すのが恐ろしい言葉が一つある。私はそれを、本当に手に入れることができるだろうか。(p.334)

「私」は何を手に入れたいんだろうか? いろいろと想像はするのだけれど、納得のいくものに至らない。同時に「私」はそういう存在なんだろうと納得する。十七を通じてようやく間接的にコミュニケーションが取れるのが「私」である。

そう考えると、チューリングマシン関連のエピソードも必要。「僕」の世界とのインタフェース。十七がいないと「異国の言葉(=「僕」の世界の言葉=読者が読める言葉)」を「私」が知る術がなくなってしまう。十七と十九が「私」を見ているから「私」が成立しているので、十七、十九がいないと「私」の一人称が成立しない。

もし本作が「私」の一人称だけから構成されていたら、ここまで小説としての美しさを感じられなかったと思う。「私」の言葉で綴られていたらそもそも読めないし、「異国の言葉」を知らないはずの「私」が何の説明もなく「異国の言葉」を使いこなしていたら、そこに矛盾を感じてしまっただろうから。

とつらつら書いていると、重ならなかったのは、科学的なホラを中心に楽しんでいるか、登場人物を中心に楽しんでいるか、で視線が交わらないからだろうか?

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