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日本・ゲーム・批評という文脈 - ビデオゲームの美学

『ビデオゲームの美学』を読んだ。『批評について: 芸術批評の哲学』、『芸術の言語』に続き、これで分析美学の本は3冊目。

本書が提案するのは、ゲームを(芸術として)批評するための枠組み。どんな本かは筆者がブログ記事『『ビデオゲームの美学』はこんな本』にしているのでスキップ。

すごくよかった。遊んだゲームについて考えるのに使いたいから、別にあんちょこが欲しい。目的、スコープ、テクニカルタームいずれも丁寧に記載されているおかげで難しい内容が書いてあるにも関わらず、飛躍が感じられないのだけれど。たまに差し込まれる筆者のゲーム愛も溢れた感じがして好きなのだけれど! 

というわけで本書とは別にそういうのがあったらいいなと思う次第。哲学に興味ないけれど、ビデオゲームについて真剣に考える人が読むには、本書はハードル高いだろうし(リライトされているとはいえもともと博士論文)。先行議論を読まなくても、流れを追えるようになっているとはいえ。

自分が読んでいた先行議論=『批評について: 芸術批評の哲学』と『芸術の言語』との関連にについて少し。

冒頭に上げたブログ記事で「図らずも本書の内容は、これら二つの古典の組み合わせになっている」と書かれているうちの一つが『芸術の言語』。先に読んでいたのはラッキーだった。虚構的内容(世界観とか設定とか)とゲーム的内容(平易な言葉で近いのはゲームシステム?)の区別とかシミュレーションの真実性とか、イメージしやすい。

なお、もう一つの『ハーフリアル』は未読。

それから批評のスタンスを大別すれば、『批評について: 芸術批評の哲学』と同じ意図主義(制作者の意図を重視する。反対にユーザがどう受け取ったかを重視するのが受容主義)だったのも、スムーズに読めた理由の一つ。と書いたけれど、もともと自分のスタンスが意図主義に当てはまっていたからか。目に付くのが(制作者の意図を想像しない)ユーザーレビューばかりなので、現状を肯定する受容主義の方が批判されにくいのでは? と邪推するくらいだし。

上ではゲームのユーザーレビューと書いたけれど、ゲームに限らないし、ユーザーにも限らない批評一般について、少し愚痴および憤り。

『批評について: 芸術批評の哲学』の感想でも引用したけれど、ゲームに限らず日本の批評は海外でいう批評ではなくて哲学エッセイに相当するものという話がある。本でも映画でも、組織的に運営されているメディアを見ていて作品にあまり触れずに自分語りしているレビューによく当たる気がするので、今ではそんなものなんだろうなと思っている。

自分がそうじゃない批評に飢えているだけかもしれないけれど。感想にあふれているから見つけにくくなっただけかもしれないけれど。

本書に対するAmazonレビューで、「「美学」というタイトルから連想されるデザイン・グラフィックについてはほとんど書かれていません」と星1をつけたレビューに対して11人が役に立ったボタンを押しているので、そんな気もしてきた。あれか。「美学がある」というときの「美学」か。この表紙を見てそれを連想したのなら想像力豊かだと思う。

という皮肉はなかなか意味論的におもしろい話みたいなのだけれど、それはさておき。似た思いをしたであろう人のレビューもあるので、Twitterに投稿できる文字数超え始めたからヤメヤメ。

とはいえ、こういう「思ってたのと違う!」系の反応は『ゲンロン 8』の特集「ゲームの時代」でも起こっていて、「ゲーム」というキーワードはまだまだ批評の文脈から遠いし、そのうえ多くの人の期待から外れた時の否定的反応が強いしで、まぁしんどい。

だからこそ、本書が(意図主義的な意味で)高い価値だと評価されて欲しいし(星1はせめて個人SNSなどでやってくれと憤り)、哲学に興味ないけれどビデオゲームについて真剣に考える人(とあとから参照したくなるであろう自分)のためにあんちょこみたいものが欲しい。

最後に本書のスコープ外の話。マルチプレイに関してはビデオゲームに限らずゲーム一般の議論が適用できそうだからあまり気にならなかったのだけれど、ゲーム実況とその視聴についてはゲームならでは感あるのでは分析美学のアプローチとるとどうなるのか気になる。

と思ってググったら「ゲームプレイ/ヤの美学」が見つかった。これ読めばいいのか。

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