『芸術の言語』を読んだ。
『批評について: 芸術批評の哲学』に続き、これで分析美学に関する本は2冊目。最近出た本だと思って手に取ったら初邦訳こそ2017年だけれど、原著が刊行されたのは1968年。内容の難しさを差し引いても、なお読みづらさを感じていたのはこれが原因か。
『批評について: 芸術批評の哲学』が「批評とは理由にもとづいた価値づけ (reasoned evaluation) である」と主張していたのとは対照的に、この『芸術の言語』は序論で、「価値の問題については付随的に触れるに過ぎない。批評の規範を提示することもない」と述べている。著者がこの本で示そうとしているのは「記号システム」。非言語表現の哲学には以前から興味があったので期待が膨らむ[1]。
本書の目標は、記号の一般論に取り組むことである。 ここでの「記号 symbol」は、きわめて一般的で無色の語として使われている。記号は、文字、語、テキスト、絵、図表、地図、モデルなどを包括するものである。序論
本書のタイトルにある「言語」は、厳密には「記号システム」に置き換えたほうがよい。序論
記号とは何か、システムとは何か、そしてそれらはわれわれの知覚、行為、科学において――それゆえまたわれわれの世界の把握と創造において――いかに機能するのか。第六章 芸術と理解
結果を先に吐いておくと、議論を追えなくて第四章の途中から最後の第六章にスキップしてしまった。そして、そのあとに続く、用語解説と概要でものすごく簡潔にまとめられていた。(第一、二、三章を読んでいたのが助けになったとはいえ)先に概要を読めばよかったというか、概要だけでお腹一杯というか。
◆
内容は概要を読めばいいので、ここでは第六章で琴線に触れた一文を。
直接の必要性を越えて記号を使うのは、実践ではなく理解のためである。第六章 芸術と理解
そういうことか! と視界が一気に晴れ渡った感じがした。(おそらく)本書でいう例示/表現/再現の動機がその対象を理解するためというのがとてもしっくり来た。文章を書くにせよ、絵を描くにせよ、書いて/描いているうちに何がわかっていなかったかわかっていったり、新しく何かわかったりする経験に、ぴったりと当てはまる。勉強会でもっとも勉強になるのは講師という話とも整合する。
◆
ここからは雑多な思いつき。
「指示」が前提の人と「例示」が前提の人のコミュニケーションが破綻するのが、概要「図1 指示と例示」から見て取れる(※ラベルは「指示」を行う「記号 Symbol」」)。「指示」が前提の場合、ラベルの指示先は明確で表示したことがそのまま伝わると考えている。一方、「例示」が前提の場合、ラベルの指示先はあくまでサンプルでありサンプル元の一側面でしかない。
「例示」のこの構造はジャック・デリダの「差延」的にも見える。表示されるのはつねにサンプル=痕跡で、そのたびに(決して知覚できないが)サンプル元から失われるものがあるという構造をしている。
「指示」「例示」を分けて概念整理したうえで、記号システムの一つとして談話的言語を分析すると、厳密な指示は存在しないと思う。思うだけで、このあたりを議論しているはずの第四、五章が読めていない(多分、意味論的差別化の話)。
第四、五章で書かれているのは記号システムの特徴。読めなかったけれど、概要(表のあたり)と用語集を行き来して、ようやく面白そうなことが書かれているんだろうくらいになった。自分の視点からみると記譜的システムはプログラミング言語で、となるとチョムスキーの形式言語や文脈自由文法をまっさきに連想する。この本では楽譜を例に挙げつつ、電子音楽にも言及しているのすごい。まだDTMの概念とかないだろうに。
そういえばこの本、文法にはあまり触れていないような。
途中、絵(北斎の絵だったと思う)が従う記号システムと(情報の)図表が従う記号システムの違いを、相対的に多くの特徴が符号(記号のインスタンス)として関わるかどうかを観点にしているのはうまいと思う。絵は操作すると表現しようとしていたものとの関係を失うが、図表は操作してもその関係が残り続ける(例えば横棒グラフと縦棒グラフの変換)。
とはいえ図表もやみくもに操作していいわけではないので、いわゆるポンチ絵とは異なる。図表の書き方・読み方(つまり指示関係)は統計リテラシーとして蓄積されつつあるように思う。文法面で思い出すのはR言語のグラフ描画ライブラリggplot2。設計開発にあたりで"Grammar of Graphics"を参照しているので、この文法を考慮したAPIになっている(使うだけだからよくわかっていないけれど)。
読んできた哲学の本が大陸系[2]に偏ってるので分析哲学の本も読んだ方がいい気がする。
これだけ読みながら考えたなんてことはなくて、むしろこれを書きながら考えたことのほうが多い。大半だ。