東京都写真美術館に行って、『イントゥ・ザ・ピクチャーズ』と『世界報道写真展2018』を見てきた。前者は収蔵作品を紹介する展覧会で、後者は世界報道写真財団が主催する巡回中の写真展。
それぞれだけでも見に行った甲斐があったうえに、写真を読み解く手掛かりの見せ方が対照的で、自分が写真を見るときの癖を自覚するいい機会になった。
このあとは、写真を見た人が読む前提で書いている。見ていない人には、何のことかわからないと思う(拙い説明なので見た人にもわからない可能性も低くない)。世界報道写真コンテストの受賞写真は、展示されていなかった写真も含めて、2018 Photo Contest | World Press Photoで見られる。
■イントゥ・ザ・ピクチャーズ
先に見たのは『イントゥ・ザ・ピクチャーズ』。この展示では、写真にキャプションが添えられていない。タイトルはおろか誰がいつどこで撮った写真なのか、意識的に作品リストに視線を動かさないと目に入らない。だから、シンプルなフレームに縁取られた各作品(連作を除く)が、ぽつねんと壁にかけられているように見える。ただ、テキストがないわけでない。7つのセクションが、簡単な問いを投げかけてくる。セクションタイトルは次のとおり。
- まなざし
- よりそい
- ある場面
- 会話が聞こえる、音が聞こえる
- 気配
- むこうとこちら
- うかびあがるもの
おかげで普段とは違う考えが浮かんだりもしたので、見終えた今ならこれはこれで。問われて初めて意識した切り口とか、問いに覚えた違和感を出発点にしっくりくる別の問い方を考えたりとか、問いを無視して行きつ戻りつしたり、あるいは「なんか書いてあった?」という人がいる可能性を検討したり。
最後の可能性がもっとも高いんだろう。本展示に来る/来た人の大半がそうという意味ではなくて、写真の展示会に足を運ばない人の方が多いという意味で。少なくない人が、自分が撮った写真を人に見せることと、自分の写真写りとを最大の関心にしているように見える(撮影スポットで自撮りしている人をよく見かけるというだけのことを、自撮りが通じない時代の到来を見越して、抽象的に書いてみた)。あと、自分の観察する限り、キャプションを読む人の方が少ない(立場上、わかっていてもそんなこと書けないか)。
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問われたうえで、自分の記憶に強く焼きついているのは、それでも幾何学的な構図の綺麗さと遊び心だったり背徳感だったりする。
一番のお気に入りは、アンドレ・ケルテスという方の《バルコニー、マルティニーク、1972年1月1日》。シンプルできれいで、さらにあだっぽい。
同じ方(だと作品リストを見返して気がついた)の《パリの椅子、1972年、パリ》もお気に入り。こちらは乱雑に置かれた椅子のラインによる平面の分割がおもしろい。仲間外れの椅子が中心に収められているのも、カメラの視線が子供を心配する親のようで微笑ましい。
今思えば、「5. けはい」に配置されていた《パリの椅子、1972年、パリ》は、どんな人が座っていたか考えてほしいという狙いだったのか。
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見覚えのある写真もちらほら。そういう写真は、キャプションがなくてもそれ以上の記憶を刺激するので、問いどころではない。とくにカルティエ・ブレッソンの《サン・ラザール駅裏、パリ》なんか、これが「決定的瞬間」を捉えた無加工の写真ではないことを思い出してしまって、まったくよくない(このことは『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』で読んだのだけれど、そのときはあまり意識しなかったことが、当時のブログを読むと思い出される。今は違う読み方をできそうだから、読み返そうか)。
ここまで挙げた写真はどれもカメラ目線の人が写っていない。自分が撮られるのも苦手だけれど、人が撮られている写真も好みではないらしい。視線を感じられる写真だと、カルティエ・ブレッソンの(写真だとやっぱりあとから知った)《アルベルト・ジャコメッティ》が可笑しかった。写真なんか撮ってないでそこにある傘持って来てくれよ、とでも思っていそう(そうだったかどうかはともかく)。
■世界報道写真展2018
次に見たのが『世界報道写真展2018』。こちらは詳しいキャプションが付いている。写真家名はじめ基本的な情報はもちろん、背景となる出来事、撮影時の状況、撮影対象がどんな人が何をしているところなのかまで書かれている。また、それらの要約が作品リストにも掲載されている。こちらはいくつものレベルで複雑な気持ち。努めて軽い気持ちでこういう催しにでも行かないと、こういう情報ってあまり入ってこないし取り入れようとはしないけれど、見たら見たで重苦しくなるのだろう、と予測したうえで行ってそのとおりの結果になり、後悔とまでは言わないが素直に満足とも言えないのはともかくとして。
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展示作品全体レベルでの複雑さは、どうにも欧米中心的(欧米という括りの雑さは自分でももどかしいが)に見えたけれど、意外と違和感がなくて、思うともなくこれでいいのかなと思う。
応募者に欧米圏の方が多かっただろうというのは想像できる。でも、この写真――いかにも西洋絵画(具体的にはフェルメール)的な構図で、中国の伝統的な住居とその住人を移した写真が、数少ない非欧米圏ーー中国の写真家が撮影した出展作品だったりする。そこには欧米の文化を象徴していそうな(食用ではなく)ペットのダックスフントらしき姿や、グローバル資本主義を象徴していそうなノートパソコンも写されていて、過剰でさえあるような。
ところで、『イントゥ・ザ・ピクチャーズ』で見たばかりの《夜明けと日没、1885》もいかにもだったし、この展示とは関係ないけれど、堂々と西洋絵画の名画を写真で再現している人達もいるし、絵画的表現を写真で再現しようという志向はいつまでどこまで続くのだろう。自分には倒錯的に思えるのだけれど。
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過去との類似性と言えば、大賞写真もそう。ベネズエラの首都における、大統領への抗議デモで、全身を炎に包まれた人の写真。政治的な背景について知るよりも早く、目に飛び込んでくる写真は、Rage Against The Machineのセルフタイトルアルバムのジャケットとして使われた写真を思い起こさせる。炎に包まれた理由が異なることを知れば、大きく見方も変わるのだけれど、それを調べる時間はもちろんキャプションを読む時間さえ与えられず、視界に入った写真は記憶や感情にはたらきかけてくる。
落ち着いたところでRATMのジャケット写真について調べてみると、同様の写真がに1963年の世界報道写真コンテストで大賞を獲得しているということもわかって、ますます受け止め方がわからなくなる。
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ロシアで開催されているサッカーワールド杯で、グループリーグで日本と試合をしたコロンビアの写真も2組あった。1組は元反政府組織のメンバーや政府軍の兵士や市民とサッカーをしているところ。もう1組はコロンビアだけでなくホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラで活動する犯罪集団「マラス」に関する写真。
これらの国々はコーヒーの産地でもあるので、日常とは無関係というわけでもない。少なくとも、コロンビア、ホンジュラス、グアテマラのコーヒーは何回か飲んでいる。
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日本では主催として朝日新聞も参加しているからだと思うけれど、その展示スペースも設けられている。内容は別として、映像展示という選択がなんかスッキリしない。言いがかりめいているけれど。