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ぐらつく - 日本のグラフィック100年

『日本のグラフィック100年』をぱらぱらと眺めてみた。

各作品を眺めるぶんには楽しい。表意文字ならではの表現がおもしろい。これは表音文字ではできない。とくに「森・林」には強く惹き付けられた。

この本と『20世紀デザイン:グラフィックスタイルとタイポグラフィの100年史 』とで、日本と欧米のグラフィックの歴史を比べられるかなとも思ったけれど、どうも無理そう。この本からは歴史観が読み取れない。

歴史を読み取れないのも当然で、この本の目的は「読者が見て語り合うこと」。それに「4つの章に分けましたが、分類が目的ではありません」とのことで、年代順に並んでいるわけでもない。でも、「当時の世相を体験していない読者のために随所に小文を配し、その小文をたどることで、日本のグラフィックの流れがつかめるように考え」られているそうだ。

わからない。これで何を語れるのか。というわけで、このわからなさについてのメタな感想を。

端的にいうとKJ法の結果を、そのまま見ているような気分だった。2冊買って作品ごとにバラバラにして、自分で分類し直してみるとおもしろいかもしれないと思う。思うだけだけれど。


解きほぐしてみると、わからないだけでなく。わかるためのとっかかりも見当たらないのが一番辛い。わからないのは、これが専門書で自分が門外漢だからだとして、何をどう掘り下げればわかれるようになるのかとっかかりも見当たらない。

章を分けた目的が分類でないなら、なんなのか。明記されていない。手がかりは見出しだけと乏しい。章内でさえ作品が時系列に並んでいないので、小文をたどっても大きな流れが読み取れない。小文が言及していない作品の方が多いから、それがそこに配されている意図を推測する手がかりがない。個々の作品だけでなく、カテゴリのレベルでも取り上げた狙いがわからない。いわゆるグラフィックに加え、TV CMやパッケージデザイン、さらにプロダクトデザイン、編集(雑誌の表紙や誌面)まで掲載されている。日本のグラフィックの文脈では常識なんだろうか。


もっと言えば、これが外から理解し得るものかどうかにさえ疑いを感じる。

疑う理由は、この本がグラフィック的な作りになっている――文章は必要最低限(しかも印象に残すために用法が一般的でない)で非言語情報をポンと差し出せば、感覚で伝わるだろうという作りになっている――からではないかと思う。

だとすれば、それをグラフィックの提示に使っても感覚を共有している専門家の中にしか伝わらないのではないのだろうか。多くの人がイメージできる一般向けのものの提示なら外まで伝わり得るけれど、これではコンテキストレベルが高過ぎる。

インタビューでも、クライアントの意向を無視してやって成功したみたいなエピソードがあったから、伝わらなくても効果がでればいいだろうという方もいるのだろう。『20世紀デザイン:グラフィックスタイルとタイポグラフィの100年史 』を締めくくる作品「ブリンギン・ダ・ノイズ、ブリンギン・ダ・ファンク」の作者ポーラ・シェアが、Netflixドキュメンタリー『アート・オブ・デザイン』で「一番難しい仕事はデザインではなく顧客を納得させることよ」と話していたのと対照的。

しばしば見かけるやたら細かくて長い文章は読ませるつもりはなくて、クライアントに言われて仕方なく入れているのではないかという邪推までしてしまう。考え過ぎが。

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