『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』を読んだ。
『戦争広告代理店』で一枚の報道写真の威力を思い知ったからだ。そこで、タイトルから報道写真の読み方が書かれているだろうと推測した本書を手に取ったのだけれど、期待していた内容とはズレがあった。と言うか、内容を理解しきれなかった。
本書のメインは、今日、「報道写真」、「ドキュメンタリー写真」、「ルポルタージュ写真」と呼ばれるものの歴史的背景だ。その中では、報道写真はその生まれからして事実を写し取ったものではないと述べられる。
けれど、そこまでだ。「では、何を写し取っているのか?」という問いを、本書は立てていない。
それどころか、主題の「報道写真」という言葉が何を指しているのかさえ、よく分からなかった。既存の用語をアンブレラワードとして使っているので、どの言葉が何を指しているのか掴めない。
『戦争広告代理店』で一枚の報道写真の威力を思い知ったからだ。そこで、タイトルから報道写真の読み方が書かれているだろうと推測した本書を手に取ったのだけれど、期待していた内容とはズレがあった。と言うか、内容を理解しきれなかった。
本書のメインは、今日、「報道写真」、「ドキュメンタリー写真」、「ルポルタージュ写真」と呼ばれるものの歴史的背景だ。その中では、報道写真はその生まれからして事実を写し取ったものではないと述べられる。
けれど、そこまでだ。「では、何を写し取っているのか?」という問いを、本書は立てていない。
それどころか、主題の「報道写真」という言葉が何を指しているのかさえ、よく分からなかった。既存の用語をアンブレラワードとして使っているので、どの言葉が何を指しているのか掴めない。
アート/ジャーナリズム/コマーシャリズムの境界でこそ成熟してきた
フォトジャーナリズムにおいて報道か、アートかを問う不毛性が改めて確認されるのであるアートなんて言葉を使ったら、何も言っていないのと同じだと思う。