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浅き夢見し - ブレード・ランナー 2022, 2036, 2048

10/27に公開予定の『ブレード・ランナー2049』(原題 "Blade Runner 2049")が待ち遠しい。期待半分不安半分の宙ぶらりんで地に足が着かない。何も手に付かないとまではいかないけれど。

期待しているのは前作『ブレードランナー』の高評価と監督。

前作『ブレードランナー』の評価はあちこちで聞く。1982年公開の映画にも関わらずAmazon.co.jpの『ブレードランナー ファイナル・カット [Blu-ray]』に300件以上のレビューが投稿されている。

監督は前作から変わっている。リドリー・スコット監督は、『2049』では制作・総指揮に。代わりを務めるのは、ドゥニ・ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督。テッド・チャンのSF小説『あなたの人生の物語』を映画化した『メッセージ』がとても印象深かったので期待している。

不安要素は2つ。前作とその原作に対する印象。

前作『ブレードランナー』について全く思い出せないこと。いつか観ていると思うんだけれど、あんまり印象に残らなかったんだろうか? とは言え、こちらはもう一度観れば済む話。すっかり忘れているので、新鮮な気持ちで楽しめそう。

もう一つは原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に対する印象。これも名作として名高いし、大きな影響を与えていることも想像に難くない。

たとえば、愛読しているWシリーズの第1作『彼女は一人で歩くのか?』の各章冒頭で引用されている。タイトルが疑問文なのも意識しているかもしれない。もちろんテーマも引き継いでいる。主人公ハギリの研究テーマはアンドロイド (本シリーズではウォーカロン) と人間との識別。問題設定がフォークト=カンプフ検査法と同じ。

でも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』自体はさして好きじゃなかったりする。そう言えば、同じくフィリップ・K・ディックの『調査班』が原作の映画『アジャストメント』も、いまいちのめり込めなかった。そのため、『ブレードランナー』を見返したら、期待値が下がったりするんじゃないかと、危惧している。

なんて考えていたけれど、『ブレード・ランナー2049』はフィリップ・K・ディック原作じゃないんだよね。そもそも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に続編ないし。

それにどうせもう観に行かないと落ち着かないわけだし、観るなら楽しんだ方がよいに決まっている。というわけで、前日譚となる3編を観てみた。あまり事前情報を仕入れないようにすることの方が多いのだけれど。リドリー・スコット監督の『エイリアン:コヴェナント』を観たあと、他の人はどんな感想だったか調べていたら、前作『プロメテウス』との間を埋める動画が公開されていたりしてな。
  1. 「ブレードランナー ブラックアウト 2022」
  2. 「2036:ネクサス・ドーン」
  3. 「2048:ノーウェア・トゥ・ラン」

以下は、各前日譚の状況を整理。試聴済みの人向け。

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