清澄白河でブラブラと『MOTサテライト 2017秋 むすぶ風景』を眺めてきた。
『MOTサテライト』というのは、休館中の東京都現代美術館 (略称MOT) が街中のスペースを使って展示を行う企画。2月に開催された『2017春 往来往来』に引き続き2回目。
アート (芸術) とアーカイブ (記録) について、ぼんやりと考えたので、メモしておく。
『2017春』も『2017秋』も、下記引用のとおり町の歴史をテーマとして掲げている。従ってそれに沿った作品が出てくる。『2017秋』では、姿を消した日本家屋の記憶や、かつて木場だった歴史に着目した作品が展示されていた。
でも、これらの作品も『MOTサテライト』の終了と同時に、消えちゃうんだよね。移動可能な作品はまだ保存の可能性があるけれど、少なくともインスタレーションは間違いなく消えてしまう。
それでいいのかな? と思う。
一時的に展示されて訪れた人々の記憶に残ればいいのかな。大半の人はしばらくしたら忘れてしまうだろうし、そうじゃなくたって100年もすれば全員この世からいなくなってしまうのに。
参加しているのはアーキビスト[1]じゃなくてアーティストだから、そういう趣旨じゃないと言えばそうなのだけれど。
ということを考えていると、作品自体じゃなくて作品の素材はアーカイブしなくていいのか? 遠い未来に向けて今残しておくべき史料としては、そちらの方が役に立つんじゃないか? とさえ思う。先日『The Video Game With No Name』を読んだせいか、「Migration project Case:藤木淳『ゲームキョウカイ』」を見て、ゲームを使ったアートより遊べるゲームが残っていた方が嬉しいだろうなと感じたりもする。
『アーカイヴの病』、読み返そうかな。
そんなことを考えながらそぞろ歩きしていたら、民家を取り壊したところに出くわしたのは悪い冗談か。
記憶・歴史というと重くなりがちだけれど、愉快な作品もあった。
何の記憶も歴史も振り返らない《見えない風景/深川編》[2]。街中を歩いて気になったものを順番に言葉にして道案内を作ろう、作って交換して他人の道案内で歩いてみよう、というワークショップ。散歩をしながら知らない道にふらふら入っていくのを楽しむような趣味をしているので、他の人が何を見て歩いているのを知るのも楽しそう。
なお、記憶も歴史も何も関係なく、歩いていて気になったものを書いていくのでかなり自由。交換して歩く頃にはなくなっていている物が書かれていたりする。たとえば、駐車場の車はいくら目立つ色をしていても、目印にはならない。目印を見つけられないは迷子になりやすい人の特徴[3]らしいので、親近感が湧く。
そんなわけで帰り道にフラフラ歩いたときに見かけたベンチ。
3人でコーヒーを飲んでいたのか。3本とも手すりの下にあって手すりの上にないのはなぜなのか。疑問は尽きない(DPZで何か似たようなことをしていた記事があった気がするのだけれど見つけられない)。
『MOTサテライト』というのは、休館中の東京都現代美術館 (略称MOT) が街中のスペースを使って展示を行う企画。2月に開催された『2017春 往来往来』に引き続き2回目。
アート (芸術) とアーカイブ (記録) について、ぼんやりと考えたので、メモしておく。
『2017春』も『2017秋』も、下記引用のとおり町の歴史をテーマとして掲げている。従ってそれに沿った作品が出てくる。『2017秋』では、姿を消した日本家屋の記憶や、かつて木場だった歴史に着目した作品が展示されていた。
「MOTサテライト」とは、美術館からまちにでかけ、地域の様々な拠点と協力し、アーティストとともに、人の記憶や歴史と関わりながら、まちの魅力を掘り起こす試みです。
展覧会|東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
第2回目となる「MOTサテライト 2017秋 むすぶ風景」では、このまちの多彩な営みにある背景や、まちが経てきた歴史的変化の軌跡をたどります。
展覧会|東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
でも、これらの作品も『MOTサテライト』の終了と同時に、消えちゃうんだよね。移動可能な作品はまだ保存の可能性があるけれど、少なくともインスタレーションは間違いなく消えてしまう。
それでいいのかな? と思う。
一時的に展示されて訪れた人々の記憶に残ればいいのかな。大半の人はしばらくしたら忘れてしまうだろうし、そうじゃなくたって100年もすれば全員この世からいなくなってしまうのに。
参加しているのはアーキビスト[1]じゃなくてアーティストだから、そういう趣旨じゃないと言えばそうなのだけれど。
ということを考えていると、作品自体じゃなくて作品の素材はアーカイブしなくていいのか? 遠い未来に向けて今残しておくべき史料としては、そちらの方が役に立つんじゃないか? とさえ思う。先日『The Video Game With No Name』を読んだせいか、「Migration project Case:藤木淳『ゲームキョウカイ』」を見て、ゲームを使ったアートより遊べるゲームが残っていた方が嬉しいだろうなと感じたりもする。
『アーカイヴの病』、読み返そうかな。
そんなことを考えながらそぞろ歩きしていたら、民家を取り壊したところに出くわしたのは悪い冗談か。
記憶・歴史というと重くなりがちだけれど、愉快な作品もあった。
何の記憶も歴史も振り返らない《見えない風景/深川編》[2]。街中を歩いて気になったものを順番に言葉にして道案内を作ろう、作って交換して他人の道案内で歩いてみよう、というワークショップ。散歩をしながら知らない道にふらふら入っていくのを楽しむような趣味をしているので、他の人が何を見て歩いているのを知るのも楽しそう。
なお、記憶も歴史も何も関係なく、歩いていて気になったものを書いていくのでかなり自由。交換して歩く頃にはなくなっていている物が書かれていたりする。たとえば、駐車場の車はいくら目立つ色をしていても、目印にはならない。目印を見つけられないは迷子になりやすい人の特徴[3]らしいので、親近感が湧く。
そんなわけで帰り道にフラフラ歩いたときに見かけたベンチ。
3人でコーヒーを飲んでいたのか。3本とも手すりの下にあって手すりの上にないのはなぜなのか。疑問は尽きない(DPZで何か似たようなことをしていた記事があった気がするのだけれど見つけられない)。