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親知らず子知らず人知れず - ゲンロン0 観光客の哲学

『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んだ。

今年の4月に発売してすぐ読んだので、最初に一通り読んだのはもう半年も前のことになる。今頃になって感想を書いているのは、ようやく考えが落ち着いたからか、あるいは単に考えるのに疲れたからか。

ともあれ、トリガらしきものもあるにはあった。それは東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー。特に、前編で触れられている「時間性」の話。これが第1部と第2部をつなぐミッシング・リンクらしい。
第1部「観光客の哲学」と、第2部「家族の哲学」っていうのが飛躍しているように見えるのは、それは錯覚でもなんでもなくて、あるべき章がないんです。「時間性」に関する章がない。
引用元: 「観光客」と「家族」を繋ぐはずだった「書かれざる章」とは―東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー前編 | ブクログ通信
ここでの「時間性」は「本当に重要なものは事後的にしか発見できない」ということ。歴史の評価に任せられて、初めて本当に重要なものがなんだったのかわかるということか。

というわけで、この「時間性」を第2部のキーワードである「家族」や「親」、「子ども」と結びつけて考えてみる。

その前に、ここでいう「家族」や「親」、「子ども」について少し補足。文字通りの意味ではなくて、もっと拡大した意味で使われている。「家族」については、強制性と偶然性と拡張性に着目して議論が展開されていて、ペットの例が引き合いに出されている。「親」についてはあまり触れられていないけれど、本書の終盤でこんな風に書かれている。
子として死ぬだけではなく親としても生きろ。ひとことで言えば、これがぼくがこの第二部で言いたいことである。むろんここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない。象徴的あるいは文化的な親も存在するだろう。否、むしろそちらの親のほうこそが、ここでいう親の概念には近いのかもしれない。
引用元: ゲンロン0 観光客の哲学
「子ども」については、いろいろと書かれている。と言うか、第2部に書かれているのは、ほとんど子どものことばかりだ。
この第二部では、第一部の延長線上で、「不気味なもの」と「子ども」の概念を考えるふたつの考察を掲載する。引用元: ゲンロン0 観光客の哲学
子どもとは不気味なもののことである。引用元: ゲンロン0 観光客の哲学

さて「親になっていたことを事後的に発見する」とか「子どもを事後的に発見する」ということになる。生物学的な親子はさておいて、象徴的あるいは文化的な親子になっていたことが、事後的に発見されることについて考えてみる。

文化的な親子は、むしろそれが普通だよなあ、と。音楽で言えば、星野源Live Tour 2017『Continues』がまさにそれがテーマだったように思う。絵で言えば、ブリューゲル「バベルの塔」展があってBABEL Higuchi Yuko Artworks原画展があるという話か。いずれにせよ、みな事後的に親になっている。自覚的に子どもを生んだわけではない。

あるいは、学術分野で言えば「巨人の肩の上に立つ」という話になる。先生と生徒のような関係だと、後継を生み育てるみたいなは話もあるけれど、直接面識がない人の成果を活用することもよくある。

こうやって考えると、最初に引用した
親としても生きろ引用元: ゲンロン0 観光客の哲学
は「子どもを育てろ」という意味に留まらないんだろうなあ、と思う。じゃあ、どんな意味なんだ? と考えても、なかなかイメージできないけれど。

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