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論理Loneliness - 孤独の価値

孤独の価値『孤独の価値』を読んだ。タイトルから想像できる通り、孤独は多くの人が考えているほど悪い状態ではないという話。

時々こうして孤独が悪い状態ではない――もっと言えば目指すに値する状態であるという入力が必要になる。そうしないと、ときどき一人でいたくなる自分は社会不適合なんじゃないかという錯覚に陥る。

プッシュされてくる情報は、反対にどれもこれも「絆」や「つながり」をクローズアップしていて、それこそが最高の幸福の形で、孤独こそ不幸の極みだと主張しているように感じられるからだ。物量に流されそうになるから、あんまり真面目に受け取らないようにしないと。

でも、だんだんと一人を許容する方向に向かいつつあると思う。例えば、「ひとりカラオケ」や「ひとり焼き肉」のお店ができたりしている。それから、ボウリングやビリヤードに行くと、一人で黙々とプレイしている人を見かける(ちょっと憧れる)。もうちょっとこういう方向に進んで欲しい、と思う。今は偏り過ぎているように感じる。

それなりの人が、表だってはあまり言わないものの、もう少し孤独を必要にしているんじゃないか、と想像する。「ソーシャル疲れ」なんて言葉が象徴的だ。実際、日本人の「協調性」について調査したら、理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしているなんて結果が出たそうだ[1]

一人になりたくなるのは、悪いことでも変わったことでもない。そう思おう。

と言っても、本当に関係を絶ってしまいたいわけでもないのがややこしいところ。現実問題、他人から隔絶された状態では生きていけない。本書でも、「本当に孤立してしまうような恐ろしい状態の孤独」と「静かで落ち着いた雰囲気で創作にも適する孤独」があると言っている。格闘ゲームの『サムライスピリッツ』シリーズの橘右京を思い出す。
好きなもの: 孤独な自分を感じる事
嫌いなもの: 真の孤独
橘 右京:SAMURAI SPIRITS OFFICIAL WEBSITE

孤独と絆、両方に価値がある。でも、巷に溢れているのは、絆を強調する情報ばかり。偏っているよなぁ。
[1] 『「しがらみ」を科学する』の第5章で紹介されている、著者の研究グループの調査結果。

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