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Disco Discommunication

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか『海賊のジレンマ』を読んだ。

海賊と聞くと『ONE PIECE』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』を思い出すけれど、この本における海賊は、
代価を支払ったり使用許可を得ることなく、他人の創造的資産をコピーしたり勝手に広める連中
のこと。

一見、悪い連中に見える。でも、代価の発生に納得できなかったり当然の権利に思える使用さえ不許可だったりしても? あるいは、その創造的資産を生んだのが海賊行為だったとしても?

例えば、私的録画・録音補償金制度。録画や録音ができる媒体(CD-R, DVD-Rなど)に著作権の補償金が上乗せされている。でも、ふと今はどうなっているんだろう? と思って、調べたら、2012年11月にレコーダーの私的録画補償金収入、デジタル移行でゼロに? 半年で1万579円 -INTERNET Watchなんてニュースがあった。何だったんだろう、と思う。

それから、DVDのリッピングが2012年10月1日から禁止になった。CDをMP3プレイヤに入れて持ち歩いていることと比べると、不便な話だと思う。
DVDリッピング規制が著作権法に盛り込まれたことにより、購入・レンタルした映画などのDVDを空のDVDにコピーしたり、映像をスマートフォンやタブレット端末に取り込む行為も違法となる。ただし、罰則は設けられていない。
今日からDVDリッピング禁止、違法DLに刑罰も~改正著作権法が一部施行 -INTERNET Watch

面白かったのが、現在著作権の保護を強めようとしている大企業も、現在だったら著作権違反となる行為から生まれていたとも言えるいう話。例えば、例えば、ディズニーの長篇映画第一作『白雪姫』はグリム童話を原作としている。
実は、海賊行為がディズニーの誕生秘話に関わっていたと言えないこともない。そもそもパブリックドメイン化したグリム兄弟のおとぎ話を資本にしてディズニーは発足している。

大企業に限らず、創造と海賊行為とは分かちがたいものだと思う。だから「芸術は模倣からはじまる」なんて言われるんだと思う。実際、全て自分で考え出すなんてことがあるんだろうか? 意図の有無に関わらず、見聞きしたものに影響を受けている。そうやって生まれたものに対して、自分が権利を持っていると主張し、他の人の使用を制約するのは、どこまでが正当なものなんだろうか?

読んでいると、自分が正当と感じる範囲が浮かび上がってくる。

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