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フォロワーロアとリーダー神話

ザ・フォロワーシップ―上司を動かす賢い部下の教科書
「『ザ・フォロワーシップ』を読んだよ」

「なんですか、〈フォロワーシップ〉って?」

「リーダーシップの反対。リーダーについていく人は、いかにあるべきか、みたいな話。リーダーシップがもてはやされるけれど、マジョリティはフォロワーだよなぁ」

「確かにリーダーシップの発揮は良いことだと言われていますね。『鶏口となるも牛後となるなかれ』なんて言いますし」

「実際、どうなんだろうね。よくそんな風に言われるってことは、逆説的に全然そんな風にはなってないことでもあるわけで」

「実態と目標は違っていて当たり前かと」

「リーダーがリーダーらしいかというとそんなこともないわけで」
私がリーダーたちか最もよく聞く不満は、スタッフは組織に対してもっと責任を感じ、自分で考え行動してほしいというものだ。スタッフがそうしないのは、たいていリーダーのやり方や組織の文化に原因があるのだが、ほとんどのリーダーがスタッフにもっとイニシアチブをとってもらいたいと思っているというのは興味深い。
ほとんどすべてのリーダーは、自分はすべての人に扉を開けていると言い、自分のまわりに「イエス・マン」はいらないと言う。しかし、その言葉の意味を十分に分かっている人、あるいは本気で言っている人はほとんどいない。
「フォロワーは逆に『リーダーにはもっとハッキリと決断して欲しい』とか、『言うべきことを言っているのにリーダーが取り合ってない』とか思っているんだろうなぁ」

「また他人事みたいに」

「何か自分の状況に置き換えられなくて。抽象的な心構えの話が目立っていたからかな? あ、でも面白い発見もあったよ」

「何を発見したんですか?」

「リーダーが気にくわないからって手を抜くと、ますます締め付けが強くなって悪循環に陥るよね」

「フォロワーにしてみたら、細々と言われてモチベーションが下がるでしょうね」

「ままならんよなぁ」

「双司君がリーダーに夢見過ぎなんじゃないですか?」

「うーん、そうなのかなぁ。って、ハッキリ言えない時点でそうなのかも? そう言えば『イノベーションの神話』でもそんな話あったっけ」

「リーダー、天才、英雄、王。個人が目立つと、それを支える人が埋もれがちなのかもしれませんね。そう言えば『動員の革命』でも、デレク・シヴァーズという方のこんな言葉が紹介されています」
最大の教訓はリーダーシップが過大評価されているということです。たしかにあの裸の男が最初でした。でも1人のバカをリーダーに変えたのは最初のフォロワーだったのです。
「リーダーになった裸のバカって、不可能男か!!」

「『境界線上のホライゾン』の葵トーリさんが目指しているのは、リーダーじゃなくて〈王様〉ですが」

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