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無二の終わりが繰り返される

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉』を読んだ。

著者はジャック・デリダになっていて、実際この本は彼が書いた追悼文を集めたもの。でも、そのジャック・デリダは、「序文」でこんな風に書いている。
ここで是非ともマイケル・ネイスとパスカル=アンヌ・ブローに対し、賞賛に満ちた多大なる感謝の意を表明しておきたいと思います。私は彼らこそがこの書物の本当の著者であることを強調したいと思います。
なぜそんな風に書かれているかというと、その二人の読みに備わる解明能力、彼らの独自で創意ある書き方(中略)、彼らの問題構成のあり方、彼らの問いかけの斬新さで、当初対象とされていた人たちの枠をはみ出すようになったから、とのこと。

これを踏まえて、自分はどんな風にこの本を読んだのか考えてみる。マイケル・ネイスとパスカル=アンヌ・ブローの「序論」を先に読んだので、予め枠外を知らされた上で初めて読んだことになる。そもそも、各文章を理解しきれていないので、枠がどこかも分かっていない。一体、何を読んだと言えるんだろう。

「序論」で示される彼らの問題構成彼らの問いかけを改めて確認してみると、まず問題ではないことを明示している。意図的な曲解を著者の真意として取り出すようなことはしない、という意味かな。
ここで問題となるのは、明らかにされるべきデリダのコーパスの潜在的な意味、既に最初から存在していながら依然解明されていない暗黙的な意味を見出すことではない。
問題にしているのは、こんなことだと書かれている。この一つの著作は、この本全体を指しているんだろうか? それともこの本に収められている各文章のことを指しているんだろうか?
私達は一つの著作に予期せぬことや予想できぬことが進入する事態を問題化したいと思う。
と、いう難しい話も考えられるけれど、それはさておく(さておかずに考え抜けて、それを書き切れるようなら、今頃哲学者になっている)。

こういう難しい「序論」を抜きにすれば、この本はジャック・デリダの追悼文集。「序文」から取られているタイトル『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』に、その見方が現れている。人が亡くなるということは、その人がいる世界がなくなるということ。その人の世界がなくなることではない。世界からその人がいなくなることではあるかもしれないけれど、その人がいる世界はその人がいない世界とは違う。

やるせない。

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