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気をつけても気がつけない

考えの整頓『考えの整頓』を読んだ。

この本は、『差分』の著者が『暮らしの手帖』に連載していたエッセイの単行本版。『差分』より肩の力を抜いて楽しめる。

通して読むと、人間は周囲をそのままに見るんじゃなく、予測を通して見ているんだと実感する。注意を払っていないと、見えるだろうと思っているものしか見えない。他のものに集中していると、ゴリラさえ見落としてしまう。

じゃあ、その予測とは何か。自分なりに考えていたら、『ノンデザイナーズ・デザインブック』が紹介しているデザインに関する4つの基本原則を思い出した。
  1. 近接
  2. 整列
  3. コントラスト
  4. 反復
この中の、1. 近接、2. 整列、4. 反復が予測に関わっていると思う。知覚にあるものは同じものだろう、空間上に何かが続いていたらそのまま続いているだろう、繰り返されているものはこの先も繰り返されるだろう、というのが予測の原形じゃないかな。

余ったコントラストは、意図された予測からの逸脱による強調だと考えると、これだけはここぞという時にしか使ってはいけないことがよく分かる。予測通りの展開が続いている中に配置されるからコントラストであって、コントラストだらけにしようとするとただの無秩序になってしまう。

コントラストは、予測からの差分とも言い換えられそう。『差分』で紹介されている動きを生む差分ではないけれど、注意を払っていなかったものが注意を引くのは、差分があるからかもしれない。

色んな例がある。この本でも『「差」という情報』というタイトルで、著者が絶対値ではなくて相対値で知覚していることを実感したエピソードが紹介されている。それから、確か『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』だったと思うのだけれど、見通しが良過ぎると風景に変化がなくなって車に気がつきにくいから、街路樹を植えて車がチラチラ見え隠れするようにしたら事故が減ったらしい。

気がつきやすくするには、工夫が必要なんだろうな。気をつけるだけじゃ、気がつけない。

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