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絵コレ - 至上の印象派展 ビュールレ・コレクション

先日、国立新美術館に行って、『至上の印象派展 ビュールレ・コレクション』を見てきた。会期は5/7まで。ゴールデンウィークに入って、混雑が増す前に行けてよかった。それでも結構な人出だったけれど。

どのセクションも気になる作品があって、充実した時間を過ごせた。途中で疲れてしまったくらい。以下、各セクションで印象が強かった作品一つ二つについての覚書あるいは感想。

第1章 肖像画

エドガー・ドガの「ピアノの前のカミュ夫人」が色っぽかった。落ち着いた雰囲気なんだけれど、それが私的な雰囲気を醸し出していて下衆な勘繰りをしてしまう。

第2章 ヨーロッパの都市

ポール・シニャックの「ジュデッカ運が、ベネツィア、朝(サンタ・マリア・デッラ・サルーケ聖堂)が輝いて見えた。点描というよりタイル画を連想させる筆の跡がおもしろい。ポストカードを買ったのだけれど、白が抑えられていたのが残念。記憶よりずっと暗く見える。レタッチして軽く白トビさせたいくらい。

第3章 19世紀のフランス絵画

では、カミーユ・コローの「読書する少女」が愛らしかった。おそらく窓際。日なたで膝の上に小さな本を載せ、軽く俯いている姿がとても気持ちよさそう。もう1点、エドゥアール・マネの「燕」にも脚を止めさせられた。一見のどかな田園風景。でも、ひとつひとつ見ていくと、うすい雲、地面の日傘、低空を飛ぶ燕。どれも雨を予感させる。そう思ってみると、2人の女性のドレスが白と黒――無彩色なのも不安を誘う。

第4章 印象派の風景――マネ、モネ、ピサロ、シスレー

ではカミーユ・ピサロの「オニーからポントワーズへ向かう道――霜」が静かな雰囲気で好み。家の並びと轍?の跡が作る消失点に視線が惹き寄せられる(一点透視法好き)。

第5章 印象派の人物――ドガとルノワール

印相が強かったのは、エドガー・ドガの「控え室の子たち」。画面奥から広がる逆光によって、折り重なった薄布――チュチュに映る脚のシルエットが、意外なくらいしっかりしていて生々しい。ところで、この視点だと画家は控え室のさらに奥、暗がりにいるはず。窃視感があって、ゾクゾクするね!(俗っぽい)。

第6章 ポール・セザンヌ

「パレットを持つ自画像」と「庭師ヴァリエ(老庭師)」がよかった。「パレットを持つ自画像」は、その絵に使われている色が載ったパレットとカンバスの裏面が描かれているので、そのカンバスにはこの絵が描かれているはず、という再帰構造が合わせ鏡を連想させる。「庭師ヴァリエ(老庭師)」はなんとも言い難い魅力がある。同じ人物を繰り返し描いたそう。庭師さんの魅力あってこその作品だろうか。

第7章 フィンセント・ファン・ゴッホ

「花咲くマロニエの枝」が、「ひまわり」の鮮やかなイメージとのギャップで、強く印象づけられた。同じようにたっぷりと絵の具を載せても、あんなにも軽くなるのか。

第8章 20世紀初頭の仏蘭西絵画

ロートレックの習作を見て、ロートレック展に行きそびれたのを悔やんだことはよく覚えている(正直に話すと集中力が途切れてきた)。

第9章 モダン・アート

パブロ・ピカソの「イタリアの女」が平面を分割してクッキリと塗り分けていて、四色問題を思い出す(疲れで発想が飛躍しだしてきた)。

第10章「新たなる絵画の地平

クロード・モネの「睡蓮の池、緑の反映」の1点のみのセクション。四隅は塗り終えていないように見えるし、キャプションには病などで制作意欲が下がったなどと書かれていたし、未完だろうか(ついに描かれているものから視線が外れた)。

ところで、ポスターなどに使われているルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」は8歳の女の子だそうで。これを「美少女」と謳って「センター」とルビを振るのは、軽妙なのか軽薄なのか。

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