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マジヤバい

『超ヤバい経済学』を読んだ。

本書は『ヤバい経済学』の続編。
続編と言っても、個別のトピックは直接つながっていないため、『ヤバい経済学』を読んでいなくても面白いと思う。
実際、読んだはずの『ヤバい経済学』の中身をすっかり忘れていたけれど、面白かった。

トピックが直接つながっていないと書いたけれど、本書の「説明のためのノート」(「まえがき」に相当)で著者自身が述べているように、テーマは一貫している。
本書の言葉を借りれば、「人は誘因で動く」だ。「誘因」は「インセンティブ」と読み替えてもいい。

こんなテーマを掲げているのは、通説を事実でひっくり返したいから、だと思う。
でも、それは容易ではない。
「いや、事実を示されたら、自分は素直に考えを改めるよ」という人は、自分の表明選好と顕示選好とを意識できていない可能性の方が高いと思う。

通説は本当に厄介で、事実無根だろうと根付かせるのは容易い。
『戦争広告代理店』(感想)でPRのプロフェッショナルはこんなことを言っている。
「どんな人間であっても、その人の評判を落とすのは簡単なんです。根拠があろうとなかろうと、悪い評判をひたすら繰り返せばよいのです。ですから、この種の攻撃は大きなダメージにつながることがあります。たとえ事実でなくとも、詳しい事情を知らないテレビの視聴者や新聞の読者は信じてしまいますからね。攻撃への対応策は綿密に練る必要がありました」
哲学における"Principle of Charity(『哲学の最前線』では好意の原理")が働いて、とか難しく考えたけれど、そんな原理がなくて片っ端から疑ってかかったとしたら、現実問題、全てを検証できるだけの能力も時間もない。
だから、積極的に信じないにしても、「ああそうなんだ」くらいの肯定的な印象くらいは持ってしまいそう。

付け加えておくと、メディアはテレビや新聞じゃなくてもよい。
何がメディアだろうと、人間は自分の信念を裏付ける情報だけを選択的に記憶する傾向がある(心理学の用語で「確証バイアス」)。

だから、こういう本が、「えーそうだったの!」と思えて、ウンチクとして自慢したくなるような通説を否定する話が書かれたんじゃないのかな、とそう思う。

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