昨日、たまたま『北極を撮った石川直樹さんと上野公園を撮る。』というほぼ日の連載を読んでいて、次の一言に行き着いた。
石川 撮ってる人に「キレイでしょ?」って言われてると、キレイに思えなくなる、みたいな。それで、3年くらい前に、「キレイ」ではなくて「カワイイ」について同じようなことを考えて、『良いものは良いのか』にこんなこと書いていたことを思い出した。
第11回「ちっぽけな美意識を超えて」
カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮った時点で、カワイイ写真が撮れることになっている。これは「キレイ」も一緒だと思う。名所なんかに行ったら、案内図に撮影ポイントまで示されていて、実際にそこに行ってみると、ごつくて高そうなカメラを三脚の上に載せている人が、おそらく最も「キレイ」に撮れるポジションにいて、「あぁ、自分がコンデジなんかで撮らなくても、もっと良いカメラで良いところから撮った写真が世界には溢れているのだなぁ」なんて思うことがままある。
「キレイ」な写真・「カワイイ」写真もそれはそれで撮るのが難しいし、撮れたら撮れたでやっぱり何か嬉しくなるのだけれど、そうじゃなくて自分がいいなと思った時に撮ったものの方が見返して面白い。写真ラベルを見ると、フィギュアの写真ばかりだから説得力に欠くけれど。
ほぼ日の連載では、だから写真は「世界の端的な模写」だと言って、タイトルの「ちっぽけな美意識」に繋がっていく。
けれど、絵を描こうと思ったらそうはいかない。どうしたって「美意識」もっと簡単に言うと「何を素敵だと思っているか」でフィルタされる。ただ、自分は3年前に、
かわいいものもそうでないものも、なぜそこに魅力を感じるのか考えるのは、面白い。と書いていて、今もまだよく分かっていなくて、こうして時々考える。
『切れない綺麗な』
というわけで、10年くらい前から5年くらい前にかけて描いたCGを見返してみると、今見てもそんなに違和感がないものから、すぐさまウィンドウを閉じたものまで、色々あってそれでも当時はこう描いたんだから、自分の好みは変わっていくものだと再確認した次第。
ちなみに違和感がなかったのは猫で、萌え絵の特に横長の顔に大きな目が下の方に描いたのは、今見ると「いまいちだなぁ」と思ってしまう。絵柄が「古い」と言ってしまえば、「どうして古びるのか?」とか「古くなるってどういうこと?」という問いが残るから、問題を棚上げにしているだけだと思う。そもそもうまくないというという点の方が大きいだろうけれど。
というわけで、「いまいち萌えない娘」が確か色々アレンジされていたから見比べたら面白いだろうな、と思って調べたら、いまいち萌えない娘(公式ページ)までできていて、よく分からないことになっていたので、今日はこのあたりで。