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メガネ男子デビュー

「JIS PCを使い始めた。
PCなど液晶画面を見続けた時の疲労を軽減してくれるらしい。
可視光線の中で最もエネルギーが大きい青~紫の光を55%カットするという触れ込み」

「それでメガネかけていたんですか。目が悪くなったのかと思いました」

「視力はまだ1.0以上あるけれど、よく疲れるようになった気がして」

「単に使い過ぎですよ。PCで1日仕事して、電車ではスマホいじって、家でもPCかiPadかPSPじゃないですか」

「ところで、青~紫の方がエネルギーが大きいのは、波長が短いからだっけ?
E = hν (E: エネルギー[J], h: プランク定数, ν: 周波数) と、λ = c / ν (λ: 波長, c: 光速) から、E = h * c / λ。
だから、波長とエネルギーは反比例する。って高校物理でやったような」

「話を逸らそうとしているのが見え見えですが、それでいいんじゃないですか?」

「と思って調べてたら、ポインティング・ベクトルなんてのが見つかって、よく分からなくなってきちゃって」

「どれどれ」
電磁場の持つエネルギーの流れの密度を表す物理量である。電磁波では、ポインティング・ベクトルはその進行方向を指し、その強度は単位面積を単位時間あたりに通過するエネルギー量となる。
ポインティング・ベクトル - Wikipedia
「可視光線いわゆる光は人間が見える波長を持った電磁波のことなので、これも光のエネルギー量を指していますね」

「うーん、『電磁場』から『電磁波』にさらっと言い換えられているけれど、この『場』と『波』の関係が分からないなー」

「これじゃないですか?」
電磁場の変動が波動として空間中を伝播するとき、これを電磁波という。
電磁場 - Wikipedia
「その手前の文まで読んだら、雰囲気は分かってきた気がする。高校物理では、静電場・静磁界と分けて習ったような、確か」
電磁場(でんじば, Electromagnetic Field, EMF)は、電磁界(でんじかい)ともいい、ベクトル場である電場(電界)と磁場(磁界)の総称。
電場の強さ・電束密度や磁場の強さ・磁束密度が時間的に変化する場合には、互いに誘起しあいながらさらにまた変化してゆくので、まとめて呼ばれる。電場・磁場の値が0でなく、時間的に一定の場合は、静電場・静磁場として別々に扱われる。
「あ、この回答しっくりくるわ」
E=hνは電磁波のエネルギーを量子化したもの(の単位量)です
電磁波エネルギーにつぃて(ゝω・ )ノ゛♥ wikipedia「電磁スペクトル」さんによる... - Yahoo!知恵袋
「ものすごく大雑把に言えば、熱力学での、気体の内部エネルギーと個々の気体分子の運動エネルギーとの関係みたいな雰囲気か。であれば、この部分も納得できる」
単位時間に単位面積を通過する電磁波のエネルギーを表すポインティングベクトルを使うのが一般的です。
電磁波エネルギーにつぃて(ゝω・ )ノ゛♥ wikipedia「電磁スペクトル」さんによる... - Yahoo!知恵袋
「納得できたようなので、そろそろメガネの話に戻りませんか?」

「そうそう、あ、でもエネルギーが大きい方がまずいんなら、紫外線の方がまずくね? 細胞を傷つけるって聞くし」

JINS PC公式サイトの図だと、紫外線は網膜の手前で止まっているように表現されていますよ」

「可視光じゃないから、網膜まで届かないようになっているのか。人間すごいな。あ、でも視覚系は、進化的には後からつぎはぎで付け足されたんだっけ。『眼の誕生』(感想) にそんなことが書いてあったような」

「また話が明後日の方向に」

「体感的には眼が疲れにくくなったように思う。でも、青味が減って黄身がかって見えるようになるから、楽描きの色塗りの時には使えないなー。あ、これは個人の感想であり、効果・効能をあらわすものではありません」

「何のCMですか......」

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