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危機が飢餓

クーリエ ジャポン12月号を読んだ。

先日、『ソーシャル・ビジネス革命―世界の課題を解決する新たな経済システム』(感想) を読んでそちら方面に対する感度が上がっているのか、貧困に関する記事『今も「飢餓」に苦しむ多くの人たちを救うことはできるのでしょうか?』が目に付いた。

極端な家庭かもしれないけれど、モロッコの食べ物が不足することがあるような家庭にも、テレビにアンテナDVDプレイヤーまであるというエピソードには驚いた。

ところで、この記事の「貧困の罠」について批判しているように読めるけれど、ここでいう「貧困の罠」は何を指しているんだろうか?

続けて「寄付」という解決手段の非効率を指摘して、本当の問題はガバナンスにあると別の経済学者の主張を援用しているけれど、自分の知る「貧困の罠」は、『最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?』(感想) で紹介されている次の4つの罠のことで、そこにガバナンスの問題は含まれている。
  • 「紛争の罠」
  • 「天然資源の罠」
  • 「内陸国であることの罠」
  • 「劣悪なガバナンス(統治)の罠」
さらに、同書でも寄付・資金援助の非効率を指摘している。

という疑問はあるけれど、この記事の指摘は自分が向けたことがない視線だったので、面白かった。次の指摘も、もしかしたらガバナンスの問題と同じくらい大きいんじゃないだろうか。
貧しい人たちはチャンスや可能性といったことに対して私たち以上に懐疑的なのです。
無限に寄付・資金援助を続けることはできない。だから、「ソーシャル・ビジネス」は持続可能性を第一義に配当を0にしたビジネスとして、自立を助けたり雇用を創出したりしようとしている。

『ドラゴン桜』でも、魚を与えるんじゃなくて、魚の釣り方を教えるんだ、という話があったっけ。

『化物語』シリーズの忍野メメの言葉を借りれば、「人は勝手に助かるだけ」。

ブラックジャックの言葉を借りれば、「医者は人をなおすんじゃない 人をなおす手伝いをするだけだけだ なおすのは…本人なんだ 本人の気力なんだぞ!」。

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