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拡散は沢山だ - 情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー

『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』を読んだ。「はじめに」によると、『週刊朝日』の連載「ウェブの見方 紙の味方」を加筆および再構成したもので、連載に載りきらなかった典拠も全て示しているとのこと。

まず、タイトルを見て「戦争とは大袈裟な」と思った。しかし『カラシニコフ』で読んだようにカラシニコフが国家間戦争を国家の対テロ活動に変えたのなら、SNSが情報戦を今の形に変えているのかもしれない。カラシニコフもSNSも、安価で、誰でも使えて、多大な影響力をもたらす。

ネット炎上、フェイクニュース、ポスト真実など話題は多岐に渡り、それぞれ思うところもある。それらを飲み込んで、乱暴にまとめると「情報を作り過ぎ」。リツイートはじめ複製。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)への投稿を恣意的に構成したまとめサイト。組織的盗用の行われたWebメディア (DeNAだけではないだろう)。自動プログラムで生成されるフェイクニュース。挙げだしたらキリがない。

最初のリツイートはともかく、それ以降は生い立ちからして邪な作為に満ち満ちている。最初のリツイートにしたって、真に受けて拡散してしまう中間層が数のうえでは最大らしいので問題外というわけでもない。

本書が紹介する各種調査結果を無理矢理まとめると、ごく一部の主体が作った作為的な情報が、「誰がシェアしたか」と「見出し」だけを見て拡散され続けているばかりで、内容を確認する人なんてほとんどいない。情報量が増えないまま複製ばかりがどんどん増え続ける。そんなイメージが湧いてくる。

(前向きなトピックも少なくないのにも関わらず)そんな悲惨な想像をしていると、終章「誰が情報戦争を終わらせるのか」に行き着く。ここでは4つの対策が示される。まず技術。つぎに経済制裁(市場)。それから発信者情報開示請求の改善(法)。最後に「報道」。

もうひとつあるとしたら「学習」だと思う。すぐに効果があがるようなものではないけれど、受け取った側が無批判に拡散し続けていたらいいカモである。たとえ虚偽情報の発信量者が減っても流通量は下げ止まりしてしまうだろう。だから誰もが学習しないといけないと思う。

サブタイトルにある「メディアリテラシー」を見て、そんなことを思う。

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