『読書の価値』を読んだ。自分は、著者の読書スタイルとも、著者が想定する読者の読書スタイルとも差異があるとわかった。他人の頭のなかが垣間見えて比べられたみたいで、おもしろい。
「まえがき」に
そう感じるのは、自分が本著者の著作を小説・新書・絵本・訳書まで読んでいるからだろう。この読み方はマイナなはずだ。どの本か忘れたが、小説と新書とで読者層が異なると読んだ記憶がある。だから、著者は自分とは違う読者層を想定して「抽象的」と書いたのだろう。
どんな読者像が想定されているかに興味が湧いて、この本と『自由をつくる自在に生きる』とで、Amazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見比べてみた。如実な違いが見られて驚いた。本書のページではビジネス書やハウツー本が並ぶが、『自由をつくる自在に生きる』では同著者の新書・エッセイがズラリと並ぶ(やはり小説は出てこない)。これはどんな傾向の表れだろうか?
新しい読者層を開拓できているわけで、きっと狙いどおりだろう。主にビジネス書やハウツー本を読んでいるなら、この本の内容は抽象的に感じるはず。そういう読者のなかにはじれったかったりイライラしたりした人もいたのではないだろうか。
著者とは違い、自分はたくさんの本を読む方だと思う。読むのも遅くはないだろうけれど、それ以上に読書にあてる時間が多い。いわゆる活字中毒なのかもしれない。この間の休日も読書に何時間もあてて1000ページ以上の文庫を数日で読み終えた。このブログのエントリィ数を見ると、ここ10年ほど毎年100冊くらいは読んでいるようだ。人生を本に振っていると言って過言ではない(そんな言い回しはない)。
著者とは違い、自分は読む本を選ぶのに時間をかけない。本屋でもAmazonでも図書館でも、まあ読むだろうと思い手に取る。必要な情報を求めて探しているときは目次やまえがきを流し読みして済ませることもあるけれど、何かしら発見を期待しているときはそのままレジ(または貸出窓口)に向かう。
著者とは違い、買いたい本をすべて買うだけの余裕はないので、本屋や図書館で見かけて、Amazonでおススメされて、Twitterで見かけて、本以外で知ったキーワードで調べて、欲しい本リストが伸びる一方だ。読み終わる前から、読んでいないときも、読みたい本を探しているとも言える。本選びしかしていないと言っても差し支えない(過言だが)。
著者と似て、広いジャンルの本を読もうとしている方だと思う。そのときそのときは特定のジャンルに偏るけれど、このブログのエントリィを振り返って見ると全体としては多岐に渡るジャンルの本が出てくるだろう。それでも本のごくごく一部に過ぎないけれど。
著者と同じように、本は自分で選ぶ。たまに勧められることもあるけれど、勧められても読まない。というか読めない。著者のデビュー作『すべてがFになる』がそうだった。友人が貸してくれて、一緒に講演を聞きに行こうと誘ってくれたのだけれど、講演までに読めなかった。でも講演には行った。そこでの話がおもしろかったので、ようやく興味が湧いて読み始めた。そして、今も読み続けている。
著者とは本を選ぶアプローチは違うけれど、著者と本に対する期待はよく似ている。知らないことを知りたい。そのために著者は時間をかけて選ぶけれど、自分は適当に選んでしまう。と思ったけれど、著者は雑誌の選択に「無作為」も利用していたや。自分も複数アプローチを取れるようにしてみよう。たまには時間をかけて本を選んでみよう。だんだんと本を読むのに長時間を割り当て続けることも難しくなるだろうし。
著者と同じように、少しずつ逐次展開して読む本が、自分にも1種類だけある。プログラミング技術書だ。写経(サンプルコードを手で打って実行させてみること)の形で外部の助けを借りながら、その実装の背景にある設計思想を自分の中に展開しようとしながら読んで(同時に書いて)いる。
◆
「まえがき」に
この本の内容は、少なからず抽象的になるだろう。と書かれているけれど、この著者としては具体的だったと思う。ものごとの見方や捉え方だけではなくて、選択の指針まで書かかれている。『自由をつくる自在に生きる』を読書にしぼって具体的に書いたらこうなるのではないか。
そう感じるのは、自分が本著者の著作を小説・新書・絵本・訳書まで読んでいるからだろう。この読み方はマイナなはずだ。どの本か忘れたが、小説と新書とで読者層が異なると読んだ記憶がある。だから、著者は自分とは違う読者層を想定して「抽象的」と書いたのだろう。
どんな読者像が想定されているかに興味が湧いて、この本と『自由をつくる自在に生きる』とで、Amazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見比べてみた。如実な違いが見られて驚いた。本書のページではビジネス書やハウツー本が並ぶが、『自由をつくる自在に生きる』では同著者の新書・エッセイがズラリと並ぶ(やはり小説は出てこない)。これはどんな傾向の表れだろうか?
新しい読者層を開拓できているわけで、きっと狙いどおりだろう。主にビジネス書やハウツー本を読んでいるなら、この本の内容は抽象的に感じるはず。そういう読者のなかにはじれったかったりイライラしたりした人もいたのではないだろうか。
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著者とは違い、自分はたくさんの本を読む方だと思う。読むのも遅くはないだろうけれど、それ以上に読書にあてる時間が多い。いわゆる活字中毒なのかもしれない。この間の休日も読書に何時間もあてて1000ページ以上の文庫を数日で読み終えた。このブログのエントリィ数を見ると、ここ10年ほど毎年100冊くらいは読んでいるようだ。人生を本に振っていると言って過言ではない(そんな言い回しはない)。
著者とは違い、自分は読む本を選ぶのに時間をかけない。本屋でもAmazonでも図書館でも、まあ読むだろうと思い手に取る。必要な情報を求めて探しているときは目次やまえがきを流し読みして済ませることもあるけれど、何かしら発見を期待しているときはそのままレジ(または貸出窓口)に向かう。
著者とは違い、買いたい本をすべて買うだけの余裕はないので、本屋や図書館で見かけて、Amazonでおススメされて、Twitterで見かけて、本以外で知ったキーワードで調べて、欲しい本リストが伸びる一方だ。読み終わる前から、読んでいないときも、読みたい本を探しているとも言える。本選びしかしていないと言っても差し支えない(過言だが)。
◆
著者と似て、広いジャンルの本を読もうとしている方だと思う。そのときそのときは特定のジャンルに偏るけれど、このブログのエントリィを振り返って見ると全体としては多岐に渡るジャンルの本が出てくるだろう。それでも本のごくごく一部に過ぎないけれど。
著者と同じように、本は自分で選ぶ。たまに勧められることもあるけれど、勧められても読まない。というか読めない。著者のデビュー作『すべてがFになる』がそうだった。友人が貸してくれて、一緒に講演を聞きに行こうと誘ってくれたのだけれど、講演までに読めなかった。でも講演には行った。そこでの話がおもしろかったので、ようやく興味が湧いて読み始めた。そして、今も読み続けている。
◆
著者とは本を選ぶアプローチは違うけれど、著者と本に対する期待はよく似ている。知らないことを知りたい。そのために著者は時間をかけて選ぶけれど、自分は適当に選んでしまう。と思ったけれど、著者は雑誌の選択に「無作為」も利用していたや。自分も複数アプローチを取れるようにしてみよう。たまには時間をかけて本を選んでみよう。だんだんと本を読むのに長時間を割り当て続けることも難しくなるだろうし。
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著者と同じように、少しずつ逐次展開して読む本が、自分にも1種類だけある。プログラミング技術書だ。写経(サンプルコードを手で打って実行させてみること)の形で外部の助けを借りながら、その実装の背景にある設計思想を自分の中に展開しようとしながら読んで(同時に書いて)いる。