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棘と毒しかない - バッドエンドの誘惑

『バッドエンドの誘惑〜なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか〜』を読んだ。

まえがきにも書いてあるとおり、本書の性格上、映画の結末が記載されているので要注意。もっと言えば、目次に記載されている作品名さえネタバレと言えばネタバレか。本書で紹介されているということは、バッドエンドで終わるということなのだから。

でも、見方を変えれば、読書案内ならぬ映画鑑賞案内としても機能する。あらすじを読んで結末を知ったくらいでは、たっぷり2時間かけてバッドエンドに辿り着いたときの、あの後味は味わえない。断っておくと、本書が扱う映画には「感動して涙が止まりませんでした」みたいな感想がCMで使われるような作品は含まれない。そういう作品は大概が悲劇でバッドエンドの類ではあるけれど、美談として消化できてしまい後味は希薄だ。

本書で一番おもしろいと思ったのは、多数の映画のバッドエンドを類型化していてるところ。特に、第一章と第三章の節タイトルにそれが現れている。これらを眺めるだけでも嫌な想像が膨らんできて胸が苦しくなりそう。ちなみに「第二章 世界イヤ映画紀行」は国ごとにまとまっていて、中を読まないと分からない。
  • 第一章 バッドエンドの誘惑
    • タイミングの悪さ
    • 神は人の上に人を作った
    • 絶望の長さ
    • 侘しさ――
    • 報いなし
  • 第三章 女と子供
    • バックステージの闇
    • イヤな女の顛末
    • ハイミスの悲劇
    • 幼女の嘘で村八分
    • こども受難映画
    • 死を招く愛
ただ、副題の「なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか」という問いについては、もうちょっと掘り下げられていたら嬉しかった。紙幅の都合か、映画評論であって映画鑑賞者論じゃないからか。

あと、本書の主題からは外れるけれど、読んでいて気になったのは「厭な映画が撮られる動機」。観たいと思うのも不思議だけれど、観たいと思って観られるのも考えてみれば不思議だ。本書でも少しだけ触れられているけれど、一体どんな衝動があるんだろうか?
「イヤな映画を撮らずにいられない」衝動と、あえて「イヤな映画を撮ってやれ」という志の違いは、微妙な差異が出来上がった映画に現れる。

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