『バナナ剥きには最適な日々』を読んだ。10篇の短篇が収められている短篇集。
その内の一篇『パラダイス行』にこんな一文がある。
これを読んだ瞬間、禅問答の「隻手音声」という思い出した。隻手=片手だけじゃ打ちあわせられないから、もちろん音なんて鳴りやしない。
だからどうした? と問われると返事に詰まる。どうするつもりもなくても連想してしまったのだから。そうなったしまったら、なかったことにはできないのだから、どうしようもない。連想したからといって、深い意味があるわけでもなく、大概しょうもない。
深い意味があることなんて何もない。それどころか浅い意味があることすら何もない。意味がない事象から意味を組むのは、観察する人間の方だ。何の変哲もない点3つ = ∵ が顔に見えるのと同じ。
だから、引用文から「どちらでもない。二人が協力したからこそ拍手が鳴ったのだ。人には協力しないとなしえないことがある」という人生訓を引き出す人もいるかもしれない。拍手は一人でだって鳴らせるのだけれど。
この種の事実誤認に基づいた人生訓に意味がないと主張するつもりはないのだけれど、実際のところ否定された気持ちになる人もいるだろうことも想像に難くない。
思わせ振りな言葉があれば、何か思ってしまうわけで。それに乗せられて、思考をもてあそぶのも楽しいわけで。
その内の一篇『パラダイス行』にこんな一文がある。
今拍手が鳴ったのは、打ちあわされた君の右手と僕の右手、どちらからだと思うかね。
これを読んだ瞬間、禅問答の「隻手音声」という思い出した。隻手=片手だけじゃ打ちあわせられないから、もちろん音なんて鳴りやしない。
だからどうした? と問われると返事に詰まる。どうするつもりもなくても連想してしまったのだから。そうなったしまったら、なかったことにはできないのだから、どうしようもない。連想したからといって、深い意味があるわけでもなく、大概しょうもない。
深い意味があることなんて何もない。それどころか浅い意味があることすら何もない。意味がない事象から意味を組むのは、観察する人間の方だ。何の変哲もない点3つ = ∵ が顔に見えるのと同じ。
だから、引用文から「どちらでもない。二人が協力したからこそ拍手が鳴ったのだ。人には協力しないとなしえないことがある」という人生訓を引き出す人もいるかもしれない。拍手は一人でだって鳴らせるのだけれど。
この種の事実誤認に基づいた人生訓に意味がないと主張するつもりはないのだけれど、実際のところ否定された気持ちになる人もいるだろうことも想像に難くない。
思わせ振りな言葉があれば、何か思ってしまうわけで。それに乗せられて、思考をもてあそぶのも楽しいわけで。