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さあ行こうぜ再構成 - ヒトはなぜ絵を描くのか

ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待 (岩波科学ライブラリー)『ヒトはなぜ絵を描くのか』を読んだ。しばらく描かないと何か無性に描きたくなる自分にとって、とてもプリミティブな問い。タイトルを目にした瞬間、読みたいと思った。

この問いに対して、この本では、認知科学的アプローチで迫り、「描くことが楽しいからではないか」という結論で締められる 。問いがプリミティブなら、結論もまたプリミティブ。客観性はさておき、個人の心情としては肯ける。描くことは楽しい、掛け値なしに。

ただ一口に「描く」と言っても「写実的な絵」と「記号的な絵」とでは、描くのに関連する能力が違うという。「写実的な絵」と「記号的な絵」の違いについては、孫引きだけれど、その違いはジョルジュ=アンリ・リュケの次の言葉に象徴されている。
「子供は見たモノを描いているのではなく、知っているモノを描いているのだ」

「写実的な絵」を描くには、見たモノを二次元的な配置として認識する能力が関連する。例として、サヴァンが映像記憶を再現して描く風景画が挙げられている。一方で「記号的な絵」を描くには、見たモノを記号として抽象的に認識する能力[1]が必要になる。こちらの例としては、子供が描く頭から手足が生えていて体が省略される絵 (頭足人) が挙げられている。

ここで、自分が行っている「アニメやマンガのキャラクタを描く」というのは、どういう行為だろう? と考えてみる。記号化された絵を二次元的な配置として認識し、それを改めて記号として認識されるようにアウトプットしているのだろうか? モノであれば、分解して組み立て直すようなもの? でも、何を描くにしろ普段は記号的に見ているから、記号化されている脳内のイメージを二次元的な配置として再構成して、それを記号として認識されるようにアウトプットしているというレベルでは同じ?

見方を変えると、絵を描くということは、脳内のイメージを、記号としてどう認識されるか予測しながら、二次元上に再構成していくことなのかもしれない。普段、何の疑問もなく楽しんで描いているけれど、こうしてその時に起こっていることについて考えてみると、違った捉え方ができて面白い。

最後に関連書籍についてメモ。『人はなぜ「美しい」がわかるのか』は哲学者のエッセイ。『脳は美をどう感じるか: アートの脳科学』は脳科学からのアプローチを紹介している。

[1] 記号として抽象的に認識するというと分かりにくいけれど、^-^や:-)はては∵が点や線の集まりじゃなくて顔に見えていることのこと。

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