ジャック・デリダの『生きることを学ぶ、終に』を読んだ。この本は、デリダが亡くなる数週間前にフランスの日刊紙に掲載された、ジャン・ビルンバウムとの対話の完全版。対話だからか、これまでに読んだ著作の中で、最も柔らかい印象を受けた。
対話と言っても専門家どうしだからハイコンテキストだし、デリダらしく対話だというのに難解な言い回しが散りばめられている。例えば、「生き残りの意味は、生きることおよび死ぬことに、付け加わるのではありません。生き残りは根元的です。すなわち、生とは生き残りです。普通の意味で生き残りと言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります」。
この難解さを諦めることは、受け入れられないことだと言っている。それは彼の一部をなしていて、理解されないだろうという理由で諦めることは死ぬことだとさえ言っている。
難解な言い回しが切っても切れないのは、彼は〈単純化〉や〈フォーマット化された一般的言説〉に抗い、ラジカルなまでに〈差異〉に忠実であろうとしているからだろう。「たとえこの忠実さが、ときには、不実や隔たりの形をも取るにせよ、これらの差異にこそ忠実でなくてはなりません。すなわち、討論を続けなければなりません。私は討論を続けています」
〈単純化〉が危険なのは、それを受け入れてしまえば、思考停止が目と鼻の先だからだと思う。平易な言葉は、すんなり入ってくるし耳触りも心地良いけれど、一面的な見方を促し事実や違いを覆い隠し、聞き手にわかった気に引き起こし、思考を停止させる。あるいは、刺激的なアジテーションは、一体感を生み高揚感をもたらすけれど、批判を受け付けず有無を言わせず感情に訴えかけ、やはり思考を停止させる。
何て言いながらあえて単純化すれば、「甘い言葉には裏がある」という話なのかもしれない。けれど、たとえそうだとしても、「うん、そうだよね」と肯きながら思考停止してしまって、無自覚に甘い言葉に乗せられていることも多々あるんだろうなぁ、と想像する(自覚していたら乗せられていない)。
一つの世界が終わってしまった(もう10年も前に終わってしまっていた)ことをようやく実感しつつ。
対話と言っても専門家どうしだからハイコンテキストだし、デリダらしく対話だというのに難解な言い回しが散りばめられている。例えば、「生き残りの意味は、生きることおよび死ぬことに、付け加わるのではありません。生き残りは根元的です。すなわち、生とは生き残りです。普通の意味で生き残りと言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります」。
この難解さを諦めることは、受け入れられないことだと言っている。それは彼の一部をなしていて、理解されないだろうという理由で諦めることは死ぬことだとさえ言っている。
難解な言い回しが切っても切れないのは、彼は〈単純化〉や〈フォーマット化された一般的言説〉に抗い、ラジカルなまでに〈差異〉に忠実であろうとしているからだろう。「たとえこの忠実さが、ときには、不実や隔たりの形をも取るにせよ、これらの差異にこそ忠実でなくてはなりません。すなわち、討論を続けなければなりません。私は討論を続けています」
〈単純化〉が危険なのは、それを受け入れてしまえば、思考停止が目と鼻の先だからだと思う。平易な言葉は、すんなり入ってくるし耳触りも心地良いけれど、一面的な見方を促し事実や違いを覆い隠し、聞き手にわかった気に引き起こし、思考を停止させる。あるいは、刺激的なアジテーションは、一体感を生み高揚感をもたらすけれど、批判を受け付けず有無を言わせず感情に訴えかけ、やはり思考を停止させる。
何て言いながらあえて単純化すれば、「甘い言葉には裏がある」という話なのかもしれない。けれど、たとえそうだとしても、「うん、そうだよね」と肯きながら思考停止してしまって、無自覚に甘い言葉に乗せられていることも多々あるんだろうなぁ、と想像する(自覚していたら乗せられていない)。
一つの世界が終わってしまった(もう10年も前に終わってしまっていた)ことをようやく実感しつつ。