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3月, 2014の投稿を表示しています

BANKSY'S SKY

『BANKSY YOU ARE AN ACCEPTABLE LEVEL OF THREAT』を読んだ。この本は覆面アーティストBANKSYの作品解説集。写真ばかりの純粋な作品集である Wall and Piece と迷ったけれど、パラパラとめくってみたら面白そうなことを言っていたので、こちらを選んだ。 BANKSYが作り出すのは主にストリート・グラフィティ。言ってしまえば、壁の落書き。おそらく想像した通り、無許可で描いているから違法行為だ。だから、普通は消される。でも、価値が出てしまって、残されることになったり、売買されたりしているらしい。おかしな話だ。 アートとして認められているにも関わらず、違法であることにこだわっている。違法でなければ、ストリート・アートではなくただのアートだ、と(この見方だとリバース・グラフィティはストリート・アートではないということになる)。 違法ではあるが悪いことをしているとも言っている。悪いのは、公共空間を汚す屋外広告だと。あるのに慣れ切ってしまって疑問に思わなかったけれど、言われてみれば、確かに景観という公共財を侵している。公共空間を侵す広告と言えば、最近繁華街など見かけるようになった宣伝用のトラック。あれも道路という公共インフラが、私企業が利益のために使われている。ノロノロ運転だから交通を妨げているし、大音量で宣伝文句をがなり続けてやかましいし、百害あって一利しかない(誰の利かは言うまでもない)。 他にも色々とメッセージを強く打ち出しているけれど、純粋に楽しい作品もある。自分は、こちらの方が好み。特に、壁の割れ目などその環境をいかした作品。象に似ているとだけ書かれた給水タンクは、言われてみれば象に見えてくる。美術館にトイレを置いてタイトルをつけて作品としたのとは逆だ。ただそこにあるものにキャプションをつけて、違う見方を促している。

Tender - キルミーベイベー 1~4

「『キルミーベイベー』の1~4を読んだよ」 「5, 6は?」 「まだKindle化されていなくてな」 「待ち遠しいですね」 「そうでもないよ」 「えー、なんですかその肩透かし」 「このそうでもなさがかえって魅力。肩の荷を下ろして、肩の力を抜いて、肩肘張らずに読める」 「続き物じゃない4コマ漫画ですからね」 「うん。その4コマだけが魅力じゃない。扉絵も楽しみ。毎回かわいい」

終焉の再演 - そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 II

「『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 II』を読んだよ」 「 『I』 を読んでから、また随分と間を開けましたね。っと調べてみたら、約1年も開いているじゃないですか」 「『I』、全然分からなくて読むのが辛くてな。でも 『生きることを学ぶ、終に』 を読んで、やっぱりこれも読もうと思って」 「今度はどうでした?」 「やっぱり全然分からなかったよ」 「見事に玉砕ですか」 「言い回しの難しさに加えて、ハイコンテキストで。でも、大勢の人に読まれるのを承知で、相手に向けた言葉を送るこのスタイルは、哲学を実践しているんだろうなぁ」 「こうして多くの追悼文を送ったそのデリダさんも、亡くなってしまいましたね」 「うん。本書のタイトルを借りれば、その世界は終焉を迎えてしまっている」 「『I』で出てきた話ですね。その人がいなくなった世界は、いた世界とは違うという話でしたっけ」 「そう理解している。『生きることを学ぶ、終に』、もう一度読み返したくなってきた。〈生き残り〉について書いてあったことは覚えているのだけれど、どんな話だったっけかな」

さあ行こうぜ再構成 - ヒトはなぜ絵を描くのか

『ヒトはなぜ絵を描くのか』を読んだ。しばらく描かないと何か無性に描きたくなる自分にとって、とてもプリミティブな問い。タイトルを目にした瞬間、読みたいと思った。 この問いに対して、この本では、認知科学的アプローチで迫り、「描くことが楽しいからではないか」という結論で締められる 。問いがプリミティブなら、結論もまたプリミティブ。客観性はさておき、個人の心情としては肯ける。描くことは楽しい、掛け値なしに。 ただ一口に「描く」と言っても「写実的な絵」と「記号的な絵」とでは、描くのに関連する能力が違うという。「写実的な絵」と「記号的な絵」の違いについては、孫引きだけれど、その違いはジョルジュ=アンリ・リュケの次の言葉に象徴されている。 「子供は見たモノを描いているのではなく、知っているモノを描いているのだ」 「写実的な絵」を描くには、見たモノを二次元的な配置として認識する能力が関連する。例として、サヴァンが映像記憶を再現して描く風景画が挙げられている。一方で「記号的な絵」を描くには、見たモノを記号として抽象的に認識する能力 [1] が必要になる。こちらの例としては、子供が描く頭から手足が生えていて体が省略される絵 (頭足人) が挙げられている。 ここで、自分が行っている「アニメやマンガのキャラクタを描く」というのは、どういう行為だろう? と考えてみる。記号化された絵を二次元的な配置として認識し、それを改めて記号として認識されるようにアウトプットしているのだろうか? モノであれば、分解して組み立て直すようなもの? でも、何を描くにしろ普段は記号的に見ているから、記号化されている脳内のイメージを二次元的な配置として再構成して、それを記号として認識されるようにアウトプットしているというレベルでは同じ? 見方を変えると、絵を描くということは、脳内のイメージを、記号としてどう認識されるか予測しながら、二次元上に再構成していくことなのかもしれない。普段、何の疑問もなく楽しんで描いているけれど、こうしてその時に起こっていることについて考えてみると、違った捉え方ができて面白い。 最後に関連書籍についてメモ。『人はなぜ「美しい」がわかるのか』は哲学者のエッセイ。 『脳は美をどう感じるか: アートの脳科学』 は脳科学からのアプローチを紹介している。 [1] 記号として

ラバーズ・バラード - Shakira/Shakira

Shakiraの"Shakira"を聴いている。 "Sale El Sol" に続く8枚目のスタジオアルバム。 ラテン色が薄れた。でも代わりに特定の色が濃くなったわけじゃなくて、バラエティが豊かになった。ロックもありエレクトロニカもありカントリーもありバラードもありだ。 好みなのは、バラード系の曲。曲名を挙げると、3. Empire, 4. You Don't Care About Me, 9. 23, 12. Loca por Ti。いつもキャッチーな曲が好きになるので、珍しい。下のPVは3. Empire。 ちょっと寂しいのが、スペイン語で歌っている曲の少なさ。11. Nunca Me Acuerdo Olividarte, 12. Loca por Tiと2曲だけしかない (Delux Editionのボーナストラック13. La La Laも含めれば、3曲)。

首輪をつけられているのは誰か? - ケルベロスの肖像

『ケルベロスの肖像』を読んだ。『チーム・バチスタの栄光』から始まった〈田口・白鳥シリーズ〉の第六作。そして、最終作。 田口が動かない。それが、この物語で田口に課せられた使命なんだろう(高階病院長との遣り取りで、明確に言い渡されている)。けれど、物語として読んでいて主人公が動かないのは、やはり物足りない。せめてもう一人の主人公・白鳥にはもっと場を引っかき回して欲しかった。 代わりに動いたのは、『アリアドネの弾丸』で登場が予告されていた東堂と、『螺鈿迷宮』で主人公を務めた天馬。その他にも多数のキャラクタが登場して、最終作らしくオールキャスト。なんだけれど、そのせいで集中がもたない。「あれ、これだれだっけ?」ってなってしまう。 物語にも、他シリーズ作品(特に『螺鈿迷宮』と『ブラックペアン1988』)を読んでいないと理解できない部分が多かったように思う。〈桜宮サーガ〉という枠ではありなのかもしれないけれど、〈田口・白鳥シリーズ〉としてまとめて欲しかったようにも思う。 ともあれ、最終作らしい締めなのは良かった。感慨に耽りたくなる。けれど、他シリーズへの参照をいちいち思い出さねばならない道中がもどかしかった。それは、田口の境遇でもあったから、意図的なものなのだろう。ただ、純粋にエンターテインメントとして読むにはちょっと辛かった。 最後に覚え書き。読み始めたシリーズで未読の作品は読みたいので、ここに列挙しておく。 『輝天炎上』(『螺鈿迷宮』の続編) 『極北ラプソディー』(『極北クレイマー』の続編) 『ブレイズメス1990』(『ブラックペアン1988』の続編) 『スリジエセンター1991』(『ブラックペアン1988』の続編) って、調べていたら〈真の最終章〉なんて惹句が帯に踊る『カレイドスコープの箱庭』なんてのが!!

徐々に - ジョジョリオン6

「ジョジョリオン6を読んだよ。今回はつるぎのスタンド〈ペイパー・ムーン・キング〉が恐ろしかった」 「相貌失認の症状を拡大したようなスタンド攻撃でしたね」 「顔だけじゃなくて、文字や記号まで識別できなくなっていたよね。あと視覚だけでなく聴覚にも影響しているね、きっと。想像すると背筋が凍る」 「一方で物語は余り進みませんでしたね」 「うん。でもつるぎはこの後も出てきそうだし、この巻はタメの時期なのかな」

Frog Log - アンディ・ウォーホル展

「『アンディ・ウォーホル展』にいってきたよ」 「ようやくですね」 「この間行くつもりだった日は酷い雪だったんだよねぇ」 「雨男だとは思っていましたが、雪男でもあったんですね」 「人をビッグフットみたいに言うなや」 「雨男の方は否定しないんですね。ともあれ、どうでした?」 「 『アメリカン・ポップ・アート展』 で見られたアンディ・ウォーホルは、一側面だったのだなぁ、と実感できたよ。同時に自分が好きなのはポップアートなんだな、とも実感できた」 「 『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~』 を読んだ時は、予習のようだったと言っていましたけれど、そのコンテキストではどうでした?」 「その本で言及されていた作品の実物を見られたのは、素直に良かったと思う。色々あってその本ではモノクロの小さな図版しか収録されていなかったしね。しかし、『エンパイア』は人類には早過ぎるだろ……」 「〈ポップ〉と形容される一方で、映像は実験的でしたね」 「ね。哲学的ですらあった。でもまぁ、そんなことよりカエルをモチーフにした作品が見られてよかった」 「即物的ですね……」 「お土産ショップで思わずマグネット買っちゃったよ!!」

記述の奇術 - テキスト9

「SF小説『テキスト9』を読んだよ」 「どうでしたか?」 「面白かったよ。ノリのいい文体に、アクロバティックな展開。登場人物の間で交わされる翻訳あるいは解釈を主題に据えたディスカッション。でも、何でだろう? のめり込めずに、ずっと一歩引いていたように思う」 「珍しいですね。いつも勢いで読み耽っているのに」 「うん、自分でも気になって考えてみた」 「何か思い当たりました?」 「中心となる世界観の存在を感じられなかったのが、最大の原因のように思う。色々と読み取ろうと思えば読み取れそうなんだけれど、深読みすればするほど肩透かしを食いそうな予感が心から離れなかった」 「どうとでも〈解釈〉できるという解釈をすれば、テーマに沿っているように思います」 「ああ、そういうことか。自己言及を利用したそういう仕掛けということか」 「だとすれば、うまく乗せられていますね」 「記述の奇術」 「また、思いつきをそのまま」 「勢いに任せて関連しそうな作品を挙げてみる。序盤のノリは『ダイヤモンド・エイジ』を連想した。途中から認識しているのが現実かどうか心許なくなってくるという意味では映画『インセプション』。さらに読み進めて、意味不明だけれど深読みできそうという意味では『ゴーレム 100 』。それから、翻訳がテーマという意味では『道化師の蝶』」 「たくさん出てきましたね」 「でも、真っ先に連想したのは『フーコーの振り子』」 「一気にSFから離れましたね」 「でも、この連想が一歩引いていた最大の原因を作り出したんだよね」

上等!! - 喧嘩部部長・満艦飾マコ

「アニメ『キルラキル』から満艦飾マコ。喧嘩部部長Ver.で」 「22話でまさかの復活を遂げましたね」 「あの展開は熱かった。23話を観るのが楽しみだ」

食えない地獄絵図 - 鬼灯の冷徹

「アニメ『鬼灯の冷徹』から鬼灯さんを描いてみた。BGMは『地獄の沙汰は君次第』で」 「この世の行い、気をつけてー」 「いい声してるよなぁ」 「でも食えない方ですよね。上司の閻魔大王への当たりが酷いです」 「鬼だしね」

おずおずずけずけ - 這いよれ!ニャル子さん 12

「『這いよれ!ニャル子さん12』を読んだよ。読み終えてしまったよ……」 「何だかテンションが低いですが大丈夫ですか?」 「ようやくニャル子にスポットが当たったと思ったら、まさか 11巻を読んだ時の何気ない一言 がこんな形で……これじゃあまるで伏線じゃあないか!!」 「テンションが乱高下していますが、ここはひとまず落ち着いて下さい」 「そうだね。今回も仮面ライダーネタが満載だったよ」 「鎧武ですね?」 「言わずもがな。あと、ハンターとしてはモンハンネタが刺さる。ゴア=マガラの肉なんて食用にすんなよ……」 「狂竜ウィルスが……」 「それから、クー子が真尋に対する執着も躊躇なく押し出していて潔い」 「底なしの欲望ですね……」 「ニャル子への欲望も相変わらずだしね。仮面ライダーで例えるとOOOと言ったところか」 「そのニャル子さんはスポットが当たってどうだったんですか?」 「色々あったけれど最後にはニャル子はニャル子だったよ、このブレなさは素敵だ。しかし、良かった良かった」 「何が良かったんですか?」 「それは読んでみてのお楽しみ、ってことで」

数寄者物好き - Skrillex/Recess

Skrillexの"Reccess"を聴いている。 リリース済みの2枚のEP をよく聴いていたので、全然そんな気がしないのだけれど、これが1stアルバム。数回再生したところで、現時点の印象を簡単に。 まず気がついたのが聴きやすさ。2枚目のEP "Bangrang EP" よりさらにノイジィさが薄れ、随分と聴きやすくなってしまった。ノイズから垣間見える美しさのコントラストが弱まってしまったのが少し残念。ほとんどノイズなのに、ハッとする瞬間が刺激的だっただけに。 なんて、アクがなくなったのを否定しているみたいだけれど、アルバムとして考えるとこの方が起伏が出て飽きにくいんじゃないか、とも思う。EPならともかくアルバム1枚通して、"Scary Monsters and Nice Spirits"の調子だったら、と想像するだに、胃もたれならぬ耳もたれがする。 次はアルバムとしての構成を意識して聴いてみよう。

明けては更ける - Beck/Morning Phase

Beckの"Morning Phase"を聴いている。とても穏やかな曲が連なっている。間違っても再生した瞬間にテンションが上がる類いのアルバムではない。 "Sea Change"とペアになる作品らしい。けれど、自分は"Sea Change"はあまり聴いていない。"Midnite Vultures"や"Guero"のゴチャゴチャした感じの方が好みだ。 でも、買ったのは、"Modern Guilt"の経験があるから。"Modern Guilt"も最初に聴いた時はピンとこなかった。でも、気がついたらちょいちょい聴いている(思い返してみると、"Midnaite Vultures"や"Guero"よりも再生回数が多いくらいかもしれない)。 なんて書きながら耳を傾けていたら、心地よい音が響いているのに気がついて、つい聴き入ってしまっている。

Man-Machine Interface - ロボコップ

「『ロボコップ』(原題: RoboCop) を観てきたよ」 「リメイクされたんですね」 「うん。致命傷を負った警官がロボット(というよりサイボーグ)として復活するという大枠は維持されていたけれど、色々変わっていたよ」 「まず、メインカラーが銀から黒に変わったのが目に付きます」 「設定も現代風に大きくアレンジされていたよ。ネットワークにも言及されていたのが象徴的」 「オリジナルが製作された1987年には、まだインターネット研究段階でしたもんね」 「映画『ダークナイト』やドラマ『パーソン・オブ・インタレスト』を思い出すね。それから、ソフトウェアと脳の関係とか、ロボコップと家族や社会との関係とかも、SF的にも観られて面白かったよ」 「 『ロボット兵士の戦争』 や 『マインド・ウォーズ 操作される脳』 を考えると、現実になる日もそんなに遠くなさそうにも思います」 「うーん、人との人工物との関係って、どうなっていくんだろうね」

世界の終わり (Philosophical version)

ジャック・デリダの『生きることを学ぶ、終に』を読んだ。この本は、デリダが亡くなる数週間前にフランスの日刊紙に掲載された、ジャン・ビルンバウムとの対話の完全版。対話だからか、これまでに読んだ著作の中で、最も柔らかい印象を受けた。 対話と言っても専門家どうしだからハイコンテキストだし、デリダらしく対話だというのに難解な言い回しが散りばめられている。例えば、「生き残りの意味は、生きることおよび死ぬことに、付け加わるのではありません。生き残りは根元的です。すなわち、生とは生き残りです。普通の意味で生き残りと言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります」。 この難解さを諦めることは、受け入れられないことだと言っている。それは彼の一部をなしていて、理解されないだろうという理由で諦めることは死ぬことだとさえ言っている。 難解な言い回しが切っても切れないのは、彼は〈単純化〉や〈フォーマット化された一般的言説〉に抗い、ラジカルなまでに〈差異〉に忠実であろうとしているからだろう。「たとえこの忠実さが、ときには、不実や隔たりの形をも取るにせよ、これらの差異にこそ忠実でなくてはなりません。すなわち、討論を続けなければなりません。私は討論を続けています」 〈単純化〉が危険なのは、それを受け入れてしまえば、思考停止が目と鼻の先だからだと思う。平易な言葉は、すんなり入ってくるし耳触りも心地良いけれど、一面的な見方を促し事実や違いを覆い隠し、聞き手にわかった気に引き起こし、思考を停止させる。あるいは、刺激的なアジテーションは、一体感を生み高揚感をもたらすけれど、批判を受け付けず有無を言わせず感情に訴えかけ、やはり思考を停止させる。 何て言いながらあえて単純化すれば、「甘い言葉には裏がある」という話なのかもしれない。けれど、たとえそうだとしても、「うん、そうだよね」と肯きながら思考停止してしまって、無自覚に甘い言葉に乗せられていることも多々あるんだろうなぁ、と想像する(自覚していたら乗せられていない)。 一つの世界が終わってしまった(もう10年も前に終わってしまっていた)ことをようやく実感しつつ。

糸操り人形の繰り糸 - アリアドネの弾丸

『アリアドネの弾丸』を読んだ。『チーム・バチスタの栄光』から始まった〈田口・白鳥シリーズ〉の第五作。 大筋は変わっていない。病院内で起きた殺人事件に田口が巻き込まれ、そこに白鳥が現れ、Ai(オートプシー・イメージング) [1] の力を借りながら事件を解決するという流れになっている。 大筋だけ見るとミステリィのようだし、実際ミステリィ色も濃いのだけれど、並行して繰り広げられる司法と医療の駆け引きも負けず劣らずスリリング。後半、田口達が厳しい時間的制約の中、警察の強制捜査およびその報道を阻止しようとし始めたら先が気になって一気に読んでしまった。 報道の恐ろしさは、この台詞に象徴されている。警察の見解に引きずられる田口に告げられる、白鳥の言葉だ。 「いいかい、これこそヤツらのやり口なんだ。単調に、圧倒的な物量戦で、あたかも事実であるかのように偏向された情報が、無批判に垂れ流される。それは“操作”ですらない。ただ膨大な情報の海で溺れさせ、人々の判断力や感覚を狂わせてしまう。そんなもので、自分を見失ってどうするのさ、田口センセ」 フィクションだと『ゴールデンスランバー』、ノンフィクションだと 『戦争広告代理店』 や 『こうして世界は誤解する』 を思い出す。どれも「いつの間にか何となくそう思われてしまっている」ことの危うさが描かれている。 [1] 死亡時画像診断のこと。 死因不明社会 に詳しい。

メジロの目印 - 河津桜

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International License . 「木場公園で河津桜を見てきたよ」 「見頃でしたか?」 「まちまち。木によってはまだほとんど蕾だったのもあれば、七分咲き~満開手前のもあったり」 「日当たりの違いでしょうか?」 「それもありそうだね。でも、咲いているのは綺麗。短時間しかいられなかったけれど、行って来たよかった」 This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International License . 「今度は逆光で」 「この木はよく咲いていますね」 This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International License . 「そうそう、小鳥も来ていたよ。遠目にはウグイスかと思ったけれど、よくよく見るとメジロだね」 「確かに目の周り白いですね。でも、よく間違えられるみたいですよ [1] [2] 」 「そもそもウグイスは滅多に人前に現れないのか。知らなかった。今までずっと間違えてたや」 [1] ウグイス#メジロとの混同 - Wikipedia [2] メジロ#ウグイスとの混同 - Wikipedia

征服の星 - ヴィニエイラ

「『世界征服〜謀略のズヴィズダー〜』からヴィニエイラ様」 「あるいは星宮ケイトさんですね」 「1話からすると、世界征服しちゃうんだよね。この子が」 「そのはずですね」 「まだ世界征服を目指すに至った経緯や、ズヴィズダーの面々が彼女についていく理由が分からないけれど、この後描かれるのかな」

真・アサシン - 暗殺教室 8

『暗殺教室 8』を読んだ。 前巻 で気になっていた第三勢力の正体は予想できていなかったけれど、ふたを開けてみればなるほどと思った。思いつかなかったのが悔しい。 それはそれとして、引きが気になり過ぎる。渚が殺意の波動に目覚めてしまった。その手前の女装とのコントラストが巧い。ついに暗殺の才能を発揮してしまうのだろうか? 一方で目覚めたきっかけについては、少年誌ということもあり、渚が想像しているような自体にはなっていないだろうな、とも思う。殺せんせーがマッハ20で必要分の解毒剤は回収していそう(でも時間どれくらい経っていたっけ? 防御形態が解除されるほどの時間は経ってはいない気がするが)。

帰ってきた - ONE PIECE 73

「『ONE PIECE 73』を読んだよ」 「ようやく話がダイナミックに動き始めましたね」 「うん。面白くなってきた。ドフラミンゴの出自やローの真意、ドレスローザの過去が明かされてきて、パンクしそうだよ」 「登場人物も多いですしね」 「そのせいで、一人一人の印象が薄くなっているような気もするが。ともあれ、ブルック好きとしては、活躍したのが嬉しい。アーティスティックだった」 「最後にまた一人増えそうでしたね」 「ソイツはやっぱアイツだろうなぁ」

上がろうガロア - 数学ガール ガロア理論

「『数学ガール ガロア理論』を読んだよ」 「今回のテーマはガロア理論――その中でも第一論文で求められた《方程式が代数的に解けるための必要十分条件》ですね」 「うん。理解には全然届いていないんだけれど、雰囲気だけでも楽しめたよ」 「さっぱりでしたか」 「うん。ほとんど予備知識がなかったし、ほとんど考えたこともなかったから。考えても分かるとは思えないが……。あ、強いて言えば『もっとも美しい対称性』で読みかじったくらい」 「この本でも対称性の話は出てきたんですか?」 「もちろん。《対称性は不変性の一種》というキーワードにも出てきたよ。でも、今回読んでいて一番面白かったのは、《方程式が代数的に解けるための必要十分条件》がある問題と繋がるところ。どちらもどうすれば証明できるか全然分からない上に、一見全然違う問題なのに!!」

うつけの吸血鬼 - 終物語〈中〉

『終物語〈中〉』を読んだ。収録されているのは『しのぶメイル』。タイトル通り忍の物語でもあったけれど、同時に駿河の物語でもあった。 まさかの中巻。意外と言えば意外だけれど、らしいと言えばらしい。『恋物語』収録の『ひたぎエンド』で終わらなかったし、『終物語〈下〉』の次に『続・終物語』が予定されていたりするし。 それでも意外と言ったのは、この作品は『終物語』の中では、浮きそうだから。それは序盤で放たれる扇のメタ発言にも現れている。 「構いませんとも。そのために私が、上巻と下巻の中間に、こうしてわざわざ中間をねじ込ん――もとい、ご用意したのですから」 実際、読み進めてみると、語られるのは、暦の過去の精算ではなく、忍の第一印象とは異なる側面の提示だ。これは〈セカンドシーズン〉のテーマだったように思う。 それでも、お蔵入りしたり、何かの特典にされたりせずに、こうして言わば正史として刊行されてよかったと思う。扇の言葉を借りれば、「パズルのピースがすべて、埋ま」ったように感じる。アタマのよい彼女には矛盾点が見えているようだけれど、自分には見えていないから、ことさら綺麗。 読み終えた今思うと、忍に関しては、『しのぶメイル』に出てくる怪異に近い思いを抱いていたのだな、と思う。超然としていて欲しい。普段は超然としているのに、たまにミスドに目を輝かせるのがかわいいのであり、逆ではない。 あ、でも今想像したら、逆は逆でいい気がしてきた。

祟り滴り - サイバークライム 悪意のファネル

『サイバークライム 悪意のファネル』を読んだ。 『檻の中の少女』 、 『サイバーテロ漂流少女』 に続く君島シリーズ3作品目。 本作は時系列上では、三作品中で最初に配置される。描かれているのは、君島がサイバーセキュリティコンサルタントとなるキッカケとなった事件。これまで何度か仄めかされていたと思う。ちなみに君島と和田との初対面もこの時期だったらしい。 タイトルにもなっている〈悪意のファネル〉という喩えが巧い。ネットは、アテンションをファネル(漏斗)のように特定の箇所に集中させる。その結果、活動が先鋭化する。事象全体はいわゆる〈炎上〉に相当するんだろうけれど、それを引き起こすネットの性質がこうして一言で表されている言葉はこれまで知らなかったし思いつかなかった。 一方でこのファネルが集めるのは悪意だけでもない。ファネルが水だろうが酒だろうが集めるのと一緒だ。クラウドファンディングや署名プラットフォームなどは、このファネルとしての性質を建設的に利用しているように思う。 ファネルが何を集めるかは、プラットフォーム・デザインによって粗方決まってくるように思う。そういう観点で考えると、〈ギデス〉がどう扱われていくかが気になるところ。後書きによると、あと2作品『絶望のトレジャー』、『掌の迷宮』と続く構想があるようなので、その中で描かれていると嬉しい。

スターター - キック・アス/ジャスティス・フォーエバー

『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』(原題:Kick-Ass 2)を観てきた。映画の日と休日が重なっていたからか、大入り満員だった。 前作 がデイヴ/キック・アスの物語だったのに対して、今作は彼を取り巻く人々の物語だった。粗(説明不足?)は多かったけれど、魅力的に描かれていたと思う。 筆頭はもちろんミンディ/ヒット・ガール。前作では今作でもキュートでヴァイオレンスだった。物語が進むにつれてどんどん綺麗になっていって、最早別人。 次に、ジャスティス・フォーエヴァーはじめ前作でのキック・アスの活躍に感化されてヒーローとしての活動を始めた人たち。 それから、デイブの父親。ネタバレになるから多くは語らない。 こうして見ると、キック・アスは仲間に恵まれているように見えるけれど、ただ一人例外がいた。トッド/アス・キッカーだ。軽率過ぎる。続編が制作されるならぜひ酷い目に遭って欲しいと思う。

広がるガール - 数学ガール ゲーデルの不完全性定理

『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』を読み返した。 『無限論の教室』 で〈無限〉が哲学的に論じられているのを読んで、「そう言えば数学的にはどうだったんだっけ?」と気になって。 そして、ミルカさんの次の一言にシビれた。 「無限は感覚をあざむく」とミルカさんが言った。「オイラー先生の真似ができる人はそうそういない。無限を扱うときに感覚に頼ると失敗する」 そう、感覚と事実は往々にして一致しない。統計が好きな自分の場合、〈モンティ・ホール問題〉や〈リンダ問題〉が良い例。感覚的に納得できないからと言って、論理的に正しくないとは限らない。 とどのつまり、自分が『無限論の教室』を読んでモヤモヤしていたのは、ミルカさんのこの忠告を忘れていたからだと思う。 そして、ミルカさんは、メガネを指を押し上げて言った。「要するに《数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき》なんだ」 自分が読んでいるのが、数学的な議論なのか数学論的な議論なのか、意識しないまま読んでいた。『無限論の教室』は〈数学論的な議論〉で、『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』は〈数学的な議論〉だ。 この忠告を思い出した今になって、『無限論の教室』を思い返してみると、自分の哲学的な議論への関心が薄れてきたことを実感する。関心が薄れたのは、その議題は問題じゃ無くて〈言語的誤解〉に過ぎないんじゃないか? と考えるようになったからだ [1] 。『数学ガール』の〈僕〉のこの言葉にも繋がる。 「テトラちゃん、いま、矛盾と完全という言葉の辞書的意味に引きずられたね」と僕は言った。 辞書的意味に引きずられて数学的用語を誤解すると、かえって理解から遠ざかる。 ところで、『無限論の教室』では、可能無限の立場に立ち排中律を拒否したブラウアーの直観主義は受け入れられず、ヒルベルトの形式主義が受け入れられたけれど、そのヒルベルトの目論見――ヒルベルト・プログラムはゲーデルの不完全性定理により破産したという流れになっている。 でも、実際排中律を使わない3値論理も実装されているよな [2] と思って調べてみたら、ブラウアーの主張は弟子のハイティングによって整理された結果、色々と広がっているみたい。 ブラウワーの主張は、感覚的で分かりにくかったが、その後ハイティング等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化さ