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Working With - 100,000年後の安全

100,000年後の安全 [DVD]『100,000年後の安全 (原題: Into Eternity)』を観た。期間限定でのYouTube無料配信[1]が直接のキッカケ。無料配信に至った経緯は、配給しているアップリンクの社長が脱原発に導く映画『100,000年後の安全』を無料配信するに綴っている。

この映画は放射性廃棄物の最終処分施設「オンカロ」についてのドキュメンタリー。放射性廃棄物という人体に害を与える物を100,000年後まで隔離し続けられるか? という話。全体的に抑制の効いたトーンなのが好印象。やろうと思えばいくらでも扇動的にできただろうに。

自分は技術を希望の対象だと思っている。その使われ方についてもどちらかというと楽観的だ。例えば、レアメタルの人工作成に成功したニュース[2]を見て問題が解決に近付いたと思うし、ほとんどの技術はそれそのものよりそれを運用する人間の方が危険だと思う。もちろん、危険な運用はされにくい(理想的にはできない)ように技術を設計することも必要だけれど。

こういう考えに立っていると、100,000年後なんてそんな未来になる前にベターな処理方法が開発されそうな気がする。まず100,000年という想像を絶するタイムスパンはどうにかされようとしていないのかな? と検索してみたら、核変換技術についての研究[3]が始まるというニュースが見つかった。半減期が長く害の大きい原子について、自然崩壊による半減を待つのではなく、核分裂させて半減期が短く害が小さい原子に変えようという技術みたい。

原発推進にしろ脱原発にしろ、既に放射性廃棄物が出てしまっている以上、関連技術の開発は必要だよなぁ、と今更ながらに思う。

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