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思いやり or 投げやり - Lunkhead/メメントモリ

メメントモリLunkheadの『メメントモリ』を聴いている。このアルバムは9枚目のフルアルバム。CDは昨年9月に発売されていたけれど、配信が始まったのは、今年の2月10日。先日それに気がついてようやく聴くことができた。

収録されているのは、次の12曲。これまでとは違ったことが色々と試みられていて新鮮。これまでで一番コンセプチュアルな印象。
  1. メメント
  2. 閃光
  3. アルピニスタ
  4. いきているから
  5. 月の城
  6. 明日死ぬぐらいの感じで
  7. 壊れてくれない
  8. raindrops
  9. 未来を願ってしまった
  10. 共犯
  11. はるなつあきふゆはる
  12. 幻灯

まず、Intro的な曲 (1. メメント) が冒頭に置かれている。セルフライナーノーツでも、「1曲目、というよりは2曲目の閃光に向けた導入のつもり」と書かれている。けれど、前作『濃藍』にも前々作『AT0M』にも導入に相当する曲はないから、1曲目がこれで驚いた。これまで同様なら2. 閃光から始まっている方が自然なくらい。

それから、3. アルピニスタにコーラスが使われている。初めてじゃないかな。同じくセルフライナーノーツによると、「サビのメロディをメンバーもオーディエンスもみんなで大合唱しているライブのイメージ」が湧いてきて作ったとのこと。

最後に、IntroだけでなくInterlude的な曲 (8. raindrops) もある。コンセプチュアルに感じるのは、1. メメントとこの曲によるところが大きいように思う。

こんな風に変わったところはあるけれど、聴けばやっぱりLunkheadらしい[1]し、歌われている詞は変わらない。あるいは、変わりつつも「ぐるぐる[2]」しているのかもしれない。インタビューの次の一節を読んでそう想像する。
30過ぎの男が歌うには青臭すぎると、今までは思っていたんですよ。だから「変わっていかなきゃな」と考えていたんですけど、自然とそういう曲が出てきた時に「別にこれでもいいのかな」と。

前向きなのか後ろ向きなのか。思いやりなのか投げやりなのか。よく分からない。けれど。それでも。

References

[1] Skream!に掲載されているインタビューで「LUNKHEADらしさとは何でしょうか?」と訊かれて、小高さんは「ベースがウザいってとこですかね~……」と答えていた。確かにデビュー当初からベースが目立っている。
[2] 5thアルバム『孵化』の8曲目のタイトル。

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