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Mirror, mirror in Warhol - ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~

ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~』を読んだ。

今週末に行く予定の『アンディ・ウォーホル展:永遠の15分』の予習のようであり、半年ほど前に行った『アメリカン・ポップ・アート展』の復習のようでもある。というのは後付けで、Kindleストアの新書ランキングで見かけて、『アンディ・ウォーホル展』に行く予定だったことを思い出しただけだったりする。

基本的には『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』で書かれているように、見た人が感じたことが作品が伝えたかったことなのかもしれない、と思っている。作者の人生とか専門家の見解とかはうっちゃっておいても大丈夫だろう。わざわざ勉強しないと見に行けないんじゃ、窮屈過ぎる。そんな説明が必要不可欠なら、作者がメディアを間違えているんじゃないか、とさえ思う。

そんな風に思っているのに、見かけたくらいでこの本を読んだのは、既に『アメリカン・ポップアート展』で一度見ているから。今のまま再度見ても同じようなことを思ってお終いになってしまいそうだ、と予感して。そういう意味では、ウォーホル自身にも興味はあったけれど、それ以上にウォーホル作品を見る他の視点に興味があったのかもしれない。

で、読んでみたら、ぐるっと一周して元いた場所に戻ってきてしまった。「近づく者全てを反射してしまう鏡のようなアーティスト」[1]だとか「作品は芸術家の個性が作ったから価値があるというより、誰が作ったとも知れず、天与のもののように存在すべきであり、全て受け取る側次第である」とかとか「芸術家が内面的な霊感に従って制作するという芸術家信仰やオリジナリティ崇拝を否定しようとする態度」なんて書かれていて、こんな言葉が引用されている。
もっと多くの人がシルクスクリーンをやるようになって、ぼくの絵が自分のものなのか誰かのものなのかわからなくなったら、とってもすてきだと思う。
そんな人の個展が開かれるのだから、皮肉な話のようでもあり、芸術家信仰やオリジナリティ崇拝が反射されただけのことのようでもある。

と、結果だけを振り返ると移動していないけれど、それでも『アンディ・ウォーホル展』がますます楽しみになった。道程が面白かったからだと思う、きっと。
[1] ダニエル・キイスの『心の鏡』を思い出す。


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