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見返り見境見様見真似

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと『こうして世界は誤解する』を読んだ。オランダの元ジャーナリストの、1998年から2003年にかけての体験が書かれている。「世界は」なんて大仰なタイトルだけれど、中心となる舞台は中東。英題の "People Like Us: Misrepresentating the Middle East" の方が内容に忠実。

内容は3つの要素、メディアの裏側、メディアに載らなかった中東の様子、メディア側の人間である著者の韜晦、がないまぜになっている。もう少し分けて書いて欲しかったように思う。けれど一方で、あえて分けて書かなかったのかな、とも思う。

自分が興味があったのは、最初のメディアの裏側。忘れないようにしよう、と思ったことがいくつかあったので箇条書きしておく。
  • 特派員が話すことは、通信社と本社によって事前に決められている。それでも特派員が現地に行くのは、現地から発信することに価値がある(少なくともそう思われている)から。
  • 特派員が取材する相手も、多くの場合、スポークスマンから紹介された人。そうでない人を見つけても、記事にできるような話を聞けるとも限らないし、そういう話を聞けたとしても報道できるかは、また別の話。
  • ニュースは変化を扱うから、慢性的で進展のない問題は俎上に載らない。例えば、占領された状態が日常になってしまうと、ニュースにならなくなる。
  • 取材される側にもPR会社が裏にいたり、と一概に弱者とは限らない。メディアが利用されている可能性もある。対立する一方だけがうまくメディアを利用すると、メディア戦争がワンサイドゲームになる。

上に書いたことを含めて、色々な事実が著者の韜晦ととも語られている。ロジカル・ライティングの基礎に則れば、事実と意見は分けて書くべきだ。でも、そんなことは著者は百も承知じゃないか、と思う。それでもこう書かれているのは、どうしてだろう? まず、こうした方が情に訴えるという理由が考えられる。人の意志決定は、統計よりも特定の人物にまつわる物語に左右される

もう一つの理由として、これは著者が書いている独裁国家の状況を反映しているんじゃないか? とも思う。独裁国家では、個人の意見を大っぴらにすることはできない。どこに独裁者の息のかかった秘密警察がいるか分からないし、たとえ秘密警察がいなくてもたまたま聞いていた人が圧力に負けてタレこまないとも限らない。仮に大っぴらにできたとしても、それが代表的な意見なのかは、裏を取れない。一方で、自由を謳う欧米でも、自由に書けはしても、それが多くの人に読まれるとは限らない。そこで、流行るように書こうとすれば、型が限られてくる。あとがきの言葉を借りれば、「本書にも、報道業界に当てはまるのと同じ歪みがある」。そして、書いたものが多くの人に読まれれば、一定の割合で存在する話の通じない人にぶちあたる。

なんてメタメッセージが存在するんじゃないか、とも。十把一絡げに言えば、知らされるということは、報せるために労力が割かれているということは、それで何かメリットを得る人がいるということなんだろうなぁ。

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