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まだ飲んでいない

Velvet Underground & Nico国立新美術館で、『アメリカン・ポップ・アート展』を観てきた。

せいぜいが、アンディ・ウォーホルの"Velvet Underground & Nico"のジャケットと、ロイ・リキテンシュタインを辛うじて知っているくらいだったけれど、それなりに楽しめた。

アートというと一点物というイメージを持っていたけれど、複製可能な作品ややそれを逆手に取った作品や組となっている作品があることが新鮮だった。

展示外だけれど、大量生産されている消費材を題材にした作品をプリントした商品を再生産して販売している様を見ていると、それはそれでクラクラしてくる。UTの企業コラボTシャツを思い出す。そう言えば、アンディ・ウォーホル作品をモチーフにした作品もあったっけ。

でも、それを熱烈に愛していたのか、冷ややかな目にでいたのかは、少なくとも自分が作品を見た限りでも分からないし、ちょっと調べたくらいでも分からなかった。
そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。アンディ・ウォーホル - Wikipedia
いくつかの話では、ウォーホルのスープ缶の選択は、消費者としての彼自身のキャンベルのスープへの熱烈な愛着を反映していた。
キャンベルのスープ缶 - Wikipedia
故人の考えたいたことなんて確かめようもないし、生前に確かめられたとしてもそれが本当だとも変わらなかったとも限らないし、生きている自分が勝手に考えればいいことか。

ウォーホル以外の作品も面白かった。4枚組の作品でテクスチャとペイントが連続しているのや、リキテンシュタインの金属光沢を利用した作品なんかは、画像では面白くないと思う。そんなものが観られて良かった。

ところで、冒頭の写真は前売り券の特典として貰ったキャンベル・スープ缶。コピペして、『200個のキャンベル・スープ缶』と同じ20×10に並べてみた。簡単にこんなことができるんだから、技術の進歩って面白い。で、加工した写真と言えば、先日見たアンドレアス・グルスキー展。そこで展示されていた『99セント』は、ウォーホルから繋がってきているのだろうか、なんて想像する。

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