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誰が何を動かすのか

ウェブで政治を動かす!『ウェブで政治を動かす!』を読んだ。12月16日の選挙前に読めて良かった。選挙までに候補者について調べてみよう。

でも、本書は選挙だけでなく声を届けていこうと言っている。確かに数年に一度しか行われない選挙だけでは、スパンが長過ぎる。

そうしないと、ロビー活動ができる組織の利益が優先されて、ユーザに不都合を強いられることになってしまう。例として、音楽業界がダウンロードを違法化させてことが挙げられている。

声を挙げても無視されてしまうんだろうなという悲観を、まだ自分は拭えないけれど、本書を読んで少しだけ楽観的になれた。

楽観的になれたのは、次の2つを知れたから。まず、ウェブのおかげで声がスケールする可能性が現実的になってきたこと。それから、たとえ直接に影響できなくてもメタ・メッセージとしての効果が期待できること。

その他にも色々と考える材料が得られた。各章の感想をツイートしていたので、次にまとめておく。

『ウェブ動』を『第1章 政治的無関心は何を引き起こすのか』まで読んだ。人・金を動かせる主体の都合のよい方向に法律が変わっていくことが例示されている。今まではそしてまだ今も多くの場合、それは業界だけれど、ユーザにもウェブという勝ち筋が見えてきたよ、と。
posted at 10:21:36

『ウェブ動』、『第2章 ウェブでつくる新時代のデモ』まで読んだ。「政治家を動かすには「カネ」か「票」」。票を動かすのに、ネットの発達が一役買っているという話。デモのメタ・メッセージの効果はこれまで考えたことがなかった。非高齢者の投票率を上げることが、メタ・メッセージになりそう。
posted at 21:55:02

『ウェブ動』、『第3章 ソーシャルメディア+マスメディア=?』まで読んだ。発信側だけでなく、受信側の 無謬への過度な要求も問題。この要求は、確からしさを扱う統計データを読むときにも、壁になる。データを読むには不確かさを受け入れる器が必要。
posted at 22:11:35

『ウェブ動』、『第4章 ネット世論を考える』「過去のツイートの集積から、一つの人格を見て取ることもできる」はその通りだと思う。アカウントページ行ってまとめ読みすると、何となく見えてくる気がする。
posted at 09:37:25

『ウェブ動』、『第4章 ネット世論を考える』まで読んだ。ネットで動く層が政治に与える影響の大きさの話。抑制が効いていて、まだまだこれからなんだろうな、と思う。影響力は、ある日突然爆発的に生まれるものじゃないだろうな、確かに。
posted at 09:54:38

『ウェブ動』、『第5章 ネット選挙にみる次世代の民主主義』支持基盤がネットユーザの少ない高齢者層で、自身もネット使わない、そんな政治家は、ネット選挙を望まないだろうなぁ、という邪推が浮かぶ。けど、読み進めていたら「金がかかる」と指摘する政治家もいるとありギャップの広さを思い知る。
posted at 10:08:14

『ウェブ動』、『第5章 ネット選挙にみる次世代の民主主義』まで読み終えた。政治家個人がソーシャルメディアを使うと、党の方針に制約される政策ではなく、人格の方がますます強く影響するという件が意外。著者は政局への偏りを問題として、政策が軸足のメディアを立ち上げようとしているのに。
posted at 20:45:06

『ウェブ動』、『第6章 政治家のソーシャルメディア利用術』まで読んだ。この章は政治家のポジティブな事例。前章より希望が湧く内容。でも、次の『第7章 問われるソーシャルメディアリテラシー』と対になっているみたい。ネガティブな事例が紹介されるはず。
posted at 09:34:34

『ウェブ動』、『第7章 問われるソーシャルメディアリテラシー』まで読み終えた。第6章の成功事例に比べ、自分でも見聞きした事例が多い。こういうスキャンダラスな内容の方が、拡散されやすいんだろうなぁ。拡散する側が正義の側に立った主役になるからか、成功事例と違って。
posted at 09:54:38

『ウェブ動』、『第8章 きみが政治を動かす』まで読み終えた。きみの声を集めようとしている政治家もいるし、政治家じゃなくても動かしたっていい、という話。「政治家はメディアたれ」とあるけれど、「である」から「する」に書き換えたら「政治を動かすには、声を集めて伝えろ」みたいな感じかな?
posted at 10:30:35

『ウェブ動』、『終章 ガバメント2.0が実現する社会へ』まで読み終えた。オンラインコミュニティの7つの原則の「ユーザーにパワーを与えること」は勇気がいりそう。信じて任ぜず。あと自分も各種のデータは機械可読にして欲しいと思う。そうすれば検証に使える。
posted at 10:51:12

『ウェブ動』、『「おわりに」に代えて』まで読み終えた。インターネットやコンピュータは道具に過ぎない。とても強力だけれど、使う人がいてなんぼ。内容から離れるけれど、一方でこういうのを使いたくない自由もある。特に公共性が高いものは、そういう層をどうフォローするといいのか。
posted at 11:02:25

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