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怪盗は何度死ぬ?

量子怪盗 (新★ハヤカワ・SF・シリーズ)『量子怪盗』を読んだ。

大筋は古典的な怪盗×名探偵の対決なのだけれど、それが繰り広げられるのはSFガジェットに溢れるポストヒューマン時代の世界。古風なものと新規なものとが入り交じる様が面白い。

数あるSFガジェットの中で大きな役目を果たしているのは〈結界(グヴロット)〉。これにより、情報交換を完全にコントロールできるプライバシー社会が実現されている。閉め切ればせいぜい人がいることしか分からないし、開け放てば記憶が共有される。

ただ例外として〈広場(アゴラ)〉と呼ばれる公共空間では、人々の振る舞いは共有される。〈広場〉は「公の議論とデモクラシーの場」と形容されていて、哲学者ハンナ・アーレントを思い出す。その著書に、〈広場〉での議論が公共の基礎だったというようなことを書いていた記憶がある。

面白いことに、その〈結界〉を破るとっかかりは、〈心理的な隙をつく社会的アプローチ(ソーシャル・エンジニアリング)〉だったりする。どれだけ技術が発達しても、むしろ技術が発達すればするほど、人間系が最も弱い鎖の輪になるだろうなぁ、と改めて思う。

ところで、キャラクタが何だか日本のアニメ的。主人公ジャン・ル・フランブールより、ヒロインのミエリの方が圧倒的に戦闘力が高い。いわゆるバトル・ヒロイン。こんな描写もあるので、作者は日本好きそう。
ケンドー・ファイターの足さばきで突進してきたのだ。
加えて一人称が「ボク」なのが日本のアニメ的な印象を強めているのだけれど、これは訳者の嗜好だろうか。

ただ、残念なことに、そのミエリについて大きな謎が残る。さらにその背後のより大きな存在(レンズマン・シリーズでいうアリシア人)もいまいち全貌が見えない。

訳者あとがきによると、本書は三部作の一作目らしい。続きが楽しみ。

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