『化け猫とめまいのスキャット―ブギーポップ・ダークリー』を読んだ。
読んだ後、また、自由について考えた。
「無意識が抑圧しているものを意識する自由」は存在し得るだろうか。
それとも、この問いが成り立つ前提――「無意識」と「意識」とは対立した概念――が、うまくないのか。
「無意識」は、自分には違いないけれど、コントロールできないから意思としては実感できない。
しかし、「無意識」を否定することを「意思の勝利」と捉えてしまうと、抵抗が目的化して、何だか違う気がする。
そもそも目的があること自体が、不自由だ。
通過点として目標があっても良いけれど、ゴールとして目的があると、その先がなくなる。
割り切れない。
素数みたい。
読んだ後、また、自由について考えた。
「無意識が抑圧しているものを意識する自由」は存在し得るだろうか。
それとも、この問いが成り立つ前提――「無意識」と「意識」とは対立した概念――が、うまくないのか。
「無意識」は、自分には違いないけれど、コントロールできないから意思としては実感できない。
しかし、「無意識」を否定することを「意思の勝利」と捉えてしまうと、抵抗が目的化して、何だか違う気がする。
そもそも目的があること自体が、不自由だ。
通過点として目標があっても良いけれど、ゴールとして目的があると、その先がなくなる。
割り切れない。
素数みたい。