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我が道が花道?

『ザ・クリスタルボール』を読んだ。

本書は『ザ・ゴール』『クリティカルチェーン』で有名な、エリヤフ・ゴールドラットの6冊目の著作。
『ザ・ゴール』では生産管理に、『クリティカルチェーン』ではプロジェクト管理に適用したTOC(Theory of Constraints:制約の理論)を、今度は小売業に適用している。

サプライチェーン・マネジメントを知っていると、わざわざ大々的に売り出している理由が分からないかも知れない。
後書きによると、TOCはサプライチェーン・マネジメントの理論的な基礎になったと言われているそうだ。
だから、重複部分も多いだろう。

しかし、そうでなくても、これまでの著作を読んでいれば、結果について目新しい部分はない。
舞台が違うが、やっていることはTOCの適用には違いない。
むしろ、小売業では話が変わるようでは、理論の弱さの証明になってしまう。

ということがあって、本書のメッセージは結果ではないのかな、と思う。
後書きに含まれいてるけれど、自分の言葉で言い換えると、メッセージは、「いかにして新しいやり方を始めるのか」。

この視点で物語を振り返ると、直接的な当事者である店長がみな変化に抵抗していることに気がついて、面白い。
主人公ポールでさえ、新しいやり方を試したきっかけは、倉庫が水浸しになるという事故だ。
その後、そのやり方を他店に広げようとするのだけれど、そこでもやはり各店の店長の抵抗に遭う。

人は基本的にやり方を変えたがらない。
真面目に取り組んでいる人ほど、そうではないだろうか。
なぜなら、そういう人は、自分が一番効果的だと信じるやり方で、既にやっている。

でもそれは個別最適で、全体を見渡せばもっと良い方法がある。
店長達がなかなか気づかない理由は、そこら中に転がっている。
分割統治、権限委譲、部門間競争……。
その理由を取り除くアプローチはないのかな?、と思う。

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