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私はどこにある?

『単純な脳、複雑な「私」』には、こんな一文がある。
心は全身に、あるいは周囲の環境に散在すると言った方が適切だと思うんだ。
この例として、著者は久し振りに母校の校歌を歌った時のことを例に挙げている。
歌い出すまでは全く思い出せなかった歌詞が、いざその時になると自然と思い出されたという。

自分にも、似たような経験がある。
久し振りにするゲームでも、意外と遊んでみれば攻略方法を思い出すものだ。

この行を読んで、『誰のためのデザイン?』を思い出した。
その中で、ドナルド. A. ノーマンは、知識が不正確でも正確に行動できる理由として次の4つを挙げている。
  1. 情報は外界にある
  2. 極度の精密さは必要でない
  3. 自然な制約が存在する
  4. 文化的な制約が存在する
心と情報という違いはあるけれど、1が最初の一文と結びつく。
これを応用すると、周囲の環境を上手く整えれば、行動を上手く選べさせそう。

心あるいは記憶が自分の外にもあると考えると、ますます捉え所がなくなる。
「確たる意思の存在」が希望に過ぎないのだろうか、と思えてくる。

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