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死屍累々 - フォークの歯はなぜ四本になったか

『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読んだ。

本書は、「形は機能にしたがう(Form Follows Function)」に対するアンチテーゼだ。同じ機能を持つ異なる形がある例や、形にこだわるあまり機能をないがしろにした例を挙げながら、何がものの形を決めているか論考している。

形に影響するものの一つに、流行がある。文化と言い換えても良い。アンカリング(認知バイアスの一種)から示唆されるように、既存のものと類似しているほど受け入れられやすい。
イノベーションは社会を変革するものですが、社会に受け入れられるにはまず、既存の価値観と整合性をとる必要があるのです。
『イノベーションの神話』
ただ、既存のものと全く同じでは、それは選ばれない。そこで、目を引くためだけに、形が利用される。
僕たちの周囲を観察してみると、今どきのデザインは、単に「珍しい形」「びっくりさせる新しさ」としてしか見ることができない。どうしてその形でなければならなかったのか、どんな技術がその形として現われたのか、それが見えてこない。
『森博嗣の道具箱』
そんな形は、容易に模倣されるし、容易く変えられる。その形をしている必然性はないからだ。単に目新しさを演出するためだけに機能を犠牲にしているのなら、なおさらだ。ユーザからもすぐに見捨てられるだろう。

一方、販売する側から見ると、新しいものを買い続けて貰う必要がある。つまり、適度に見捨てられる必要がある。「使い捨て」が批判されると「エコ替え」のような耳に心地よい名前をつける。収納スペースに限界があれば、下取りもする。こうした活動は、いつまで続けられるのだろうか。
アイデアの良さというものは、その影響が及ぶ期間をどれくらい先まで考慮するかによって変わってくるのです。
『イノベーションの神話』
40年後に同じ形でいられる工業製品が、今存在するだろうか? 日本人は、そういうものをそろそろ作らなくてはならないだろう。
『森博嗣の道具箱』
これまで未来への展望が、たびたび現状を害する原因になったからこそ、デザイナーはもっと新調かつ徹底的に、外見や短期的なデザイン問題の目標の先を思い描き、それらの長期的な結果に目を向けなければならない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』
長期間に渡り同じ形でいられるものを売るだけでは、企業は維持できない。付随するサービスやコンテンツが必要だろう。

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