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独我論の世界

『Web情報アーキテクチャ』を読んだ。

誤植が気になったけれど、内容はユニークで良かったと思う。
誤植については出版社に連絡したので、今後訂正が入ると期待して、その内容について簡単に紹介する。

本書のテーマ「情報アーキテクチャ」を一言で説明すると、「情報の見つけやすさ」だろう。
ユーザに見つけて貰えないものは、ユーザにとって存在しないも同然である。

一口に「見つけやすさ」と言っても、どんな情報ニーズに対する「見つけやすさ」かで、対策は異なる。
本書によると、情報ニーズには次の3種類があるそうだ。
  • 「既知情報探索 (known-item seeking)」: 特定の情報を目的とした探索。
  • 「探求探索 (exploratory seeking)」:事前には不明確だが見たらそれと分かる情報の探索。
  • 「全数探索 (exhaustive research)」:特定のテーマに関する全ての情報の探索。
3種類のニーズ全てについて見つけ易いようにするのが「情報アーキテクチャ」の設計ということらしい。
その「情報アーキテクチャ」は、次の4種類の要素から成る。
  • 「組織化」:構造化、階層化、分類と言い換えてもいいと思う。原著では何と表記されていたのだろう。
  • 「ラベリング」:ラベルから期待する内容とコンテンツとが食い違うとコンテンツの質とは無関係に満不満に感じることがある。
  • 「ナビゲーション」:メニューやサイトマップのこと。
  • 「検索」:キーワードが分かっている場合、これがないともどかしい。
本書では各要素についてそれぞれ1章を割いている。
加えて、この4要素をつなぐ「シソーラス、制限語彙、メタデータ」にも1章を割かれている。
コンテンツ中の語彙を一貫させながら、ユーザの語彙を受け入れるために必要ということだ。

本書が面白いのは、これだけ――つまり、「情報アーキテクチャ」の内容紹介だけで終わらないところだと思う。
この後、これらの要素を作るためのプロセス、企業内での組織的展開のためのフレームワーク、事例研究と続く。

こうして振り返るときちんと組織化されていたのだなぁ、と思う。
スコープが広いせいか自分の記憶力が不足しているせいか、読んでいる間は内容が頭に入ってこなかった。
あるいは後半の内容に対する自分の関心が薄いのも一因かも知れない。

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