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差が付く錯覚 - 錯覚の科学

『錯覚の科学』 を読んだ。 本書のテーマは、日常的に現われる次の6つの錯覚。 これらの錯覚について、主に実験結果を引き合いに出しながら、その仕組や影響について解説している。 ()内は、自分なりの理解。 注意の錯覚(注意は選択的。目の前にあっても、見えると思っていなければしばしば見落とす) 記憶の錯覚(鮮明に思い出せる記憶が正しいとは限らない。下手をしたらディティールは捏造したもの) 自信の錯覚(みんな自分の実力は中央値以上だと思っている。もちろん中央値の定義から考えてあり得ない) 知識の錯覚(見慣れたもの、使い慣れているものは、深く理解していると誤解する) 原因の錯覚(相関でも偶然でも、前後関係があれば因果関係を引き出してしまう) 可能性の錯覚 (自分はやればできる。きっかけがないだけ) ただ「おわりに」では、錯覚は直感の利点の裏返しであることと、直感の方が役に立つ問題もあることを述べている。 印象的だったのは、ジャムの評価に関する実験についての次の記述。 なぜジャムについて考えすぎると、評価に誤りが出るのだろう。理由は二つある。まず、ジャムのことを考えても、ジャムの味に関する情報が増えるわけではない――味のよしあしについては味見が情報のすべてなのだ。そしてそれ以上に重要と思われる第ニの理由は、味の好みがおもに感覚的な反応で有り論理的分析にもとづくもではないためだ。 第一の理由は、小説 『花物語』 ( 感想 )で「悪魔様」が同じ事を言っている。 「まあ『考える』という行為は、実際には『思い出している』だけだからね。どうしようもなく思える悩み事を考え続けたらいつかは解決に辿り着くなんてのは幻想だよ」 第ニの理由も、面白い。悩んだら、「それは本当に論理的に考えるべき問題か?」と問い直すのは、問題の解消に有効そう。

何が何を決める

『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』を読んだ。 副題には「高校生からの」とあるけれど、いつ読んでも面白いと思う。少なくとも自分は面白かった。著者もあとがきでこのように書いている。 そういったことを、若い人たちだけではなく、大人の人たちにも考えてもらいたくて、この本を書きました。 いずれにせよ、入門だから広く浅く分かりやすく書かれていると思う。読みやすい。 中心となるテーマは、「心でっかち」な考え方への疑いだ。「心でっかち」な考え方とは、何でも心で解決しようとする姿勢のこと。極端な例を挙げると精神論。ワイドショーの犯罪の原因を犯罪者の心の闇に求める姿勢もそう。それから、 『天才! 成功する人々の法則』 が指摘している、成功を個人の才能で理解しようとする姿勢もこれだと思う。 これを著者は「エミックな理解」としている。これは、直感的で多くの人に納得と安心をもたらしている。しかし、これが「現実を見る目を微妙に曇らせてしまう」とも言っていて、それはその通りだと思う。 『錯覚の科学』 でいう「知識の錯覚(見慣れたもの、使い慣れているものは、深く理解していると誤解する)」と、理解していると思っている事象のリスクを過小評価する認知バイアスとが重なって、問題をひどく過小に捉えているはずだ。 「エミックな理解」に対して、「エティックな説明」がある。厳密には違うらしいけれど、本書の中では科学的な説明というような意味で使っている。じゃあ科学的ってどういうこと? という疑問が湧くけれど、主題ではないため特に説明されていない。自分の理解をざっくばらんに言うと、再現性・整合性・検証可能性があれば「科学的」だと思う。最近読んだ本では、 『科学的とはどういう意味か』 や 『もうダマされないための「科学」講義』 が詳しい。 どちらが優れているというわけではないけれど、「エミックな理解」が今の日本の社会では支配的なように見える。よく耳にするコミュケーション力は、「エミックな理解」に立脚している。 だけど、実際にそうだろうか? 本書第5章で、著者の研究グループが日本人の「協調性」について調べた結果は、そうではない可能性を示している。端的に書くと、「理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしている」と...

注意の自由

『脳はすすんでだまされたがる』を読んだ。本書のテーマは手品と神経科学。手品のトリックを神経科学の観点から説明しているところもあれば、神経科学が手品から学んでいるところもある。 錯覚を科学的に扱っているという点で 『最新脳科学でわかった 五感の驚異』 と通じるものがある。共通の例もちらほら出てくる。それから、 『錯覚の科学』 については直接言及している。 注意を向けていないと、感覚としては受け取っていても意識できない、ということが本当によく分かる。注意を向けていないところでは、何か起こっても気がつかないから、そこに注意が戻った瞬間に驚くことになる。事実がどうか? ではなく、それを見た人がどう感じるか? がポイントだ。となると、観客の目に晒され続けてきた手品に一日の長があるというのも分かる。 逆に、どうすれば注意がそこに向くのか? と考えると、事故防止に応用できるはず。 『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』 で、近づいてくる車が見え続けてその刺激に順化してしまう見晴らしのいい交差点より、街路樹などで見えたり見えなかったりと変化がある交差点の方が、気がつきやすいというエピソードがあったことを思い出す。

五感の語感

『最新脳科学でわかった 五感の驚異』を読んだ。 『錯覚の科学』 や統計に関する読み物を読んでいると、人間の感覚のあまりのあてにならなさに疑心暗鬼に陥るけれども、本書を読むと少なからず自信を取り戻せる。 本書では五感全てに加えて多感覚を扱っているけれど、聴覚に限って言えば 『音楽の科学』 に通じるものがある。 この手の本だと、 『ぼくには数字が風景に見える』 で描かれる共感覚やサヴァン症候群の話が全面に出ることが多く、実際、本書にもそうした例がいくつも挙げられるけれど、本書の主眼はそこではない。 本書の主題は、多くの人がそれと気づかないで、でも実はしっかり五感を活用しているということだと思う。それは、単に目でものを見ているとか、耳で音を聴いているとか、鼻で匂いを嗅いでいるとか、舌で食べ物を味わっているとか、手触りで触感を楽しんでいるというだけのことではない。 対象を知覚する際に、これらの感覚が複雑に絡み合っている(クロスモーダル)と言っている。分かりやすいのが、料理の味だと思う。舌で感じる味だけでなく、見た目にも香りにも食感にも音にも影響されている。こうした作用が、実は色んな感覚で働いているらしい。 もう少し感覚を信じてみよう、と思った。たとえ上手く説明できなくても。

音の故郷

『響きの科学』を読んだ。音楽の授業で、こういうものだと覚えさせられた諸々に対するモヤモヤが大量に解消した。 例えば、音階の話。どう定められたかの話が、原理と実用との間の葛藤が想像できて、面白かった。 もう一つ面白かったのが、実証で通説を覆しているところ。以前、 ヘッドホン交換と音の評価の正確性について で参照した、『錯覚の科学』に通じるものがある。 調の話は、通説が信じられているがゆえに、結果が一致してしまっている。まさに予言の自己実現。「それぞれの調には独自の気分がある」というのは思い込みで、実際に気分を変えるのは転調。それでも、多くの曲が思い込みに支配されているから、明るい曲は長調で書かれるし、悲しい曲は単調で書かれる(長調で書かれたから明るくなるわけではない。単調についても同様)。 音楽でこういうこと教えてくれたら、自分はもっと興味持っただろうな、と思う。理屈はともかく歌ったり何か演奏したりする方に興味を持つ人の方が多くて、そういう人の方が音楽を生業をすることが多いだろうから、そんな確率は低そうだけれど。 ところで、日本には表記の種類が多い。本書を読んでいる間にこれらの関係がようやくすっきりした。ドレミファソラシド (イタリア式) とCDEFGABC (アメリカ式) とハニホヘトイロハ (日本式) が対応する。だから、C Majorとハ長調は単なる直訳だと分かる。 こうして説明されると理解はできるけれど、正直、混沌としていると思う。きっと、歴史的経緯があってのことなんだろうけれど、表記が揺れ過ぎだろう、と思う。「ド長調」でいいじゃん、と。

ヘッドホン交換と音の評価の正確性について

パソコンで使っているヘッドホンを、SONYのMDR-XD100からaudio-technicaの ATH-SJ11 に換えた。 ちなみに、SONYのMDR-XD100を買った時のエントリィは『 ヘッドホン買い換え 』。 SONYのが壊れたわけではない。 Summer Sonic 2011でaudio-technicaのブースでイベントに参加したら、抽選に当たってATH-SJ11が貰えた。 このまま眠らせておいても、場所を取るだけなので使っている。 MDR-XD100と比べると、音はこちらの方が好み。 くっきり聞こえるし、低音がよく出ているように感じる。 遮音性もこちらの方が高いけれど、それだけ圧迫感があるので着けていて楽なのは、MDR-XD100。 と書いてはみたものの、落ち着かない。 まず、 『錯覚の科学』 ( 感想 )でこんな実験を知ったせいだ。 なお、参考文献によると、元ネタは Do Coat Hangers Sound As Good Monster Cables? - The Consumerist 。 少なくともある非公式なブラインドテストの結果では、オーディオマニアが高級品のケーブルと、ハンガーの針金を使ったスピーカケーブルのちがいを聞き分けられなかった。 ケーブルはともかくヘッドホン全体が違うなら、1000~2000円台のイヤホン、ヘッドホンしか使っていない自分でも音の違いが分かると信じたい。 加えて、ジャムの味について熟考すると評価を誤って、犯人の顔についての特徴を書き出すと記憶が曖昧になるそうだ (こちらは"言語隠蔽効果"と呼ぶらしい)。 ジャムのことを考えても、ジャムの味に関する情報が増えるわけではない――味のよしあしについては味見が情報のすべてなのだ。 書き出した言語情報は、犯人の顔を最初に捉えた視覚による非言語情報を曇らせた。そして言語情報のほうが、正確度が低かったのだ。 SONYのヘッドホンの音を思い出しながら、こうしてブログに書くなんて最悪じゃないだろうか。 唯一の救いは、audio-technicaのヘッドホンを、ブログを書いている今まさに使っていることくらいか。

知識と致死 - 怖い絵展

上野の森美術館に行って、 『怖い絵展』 を観てきた。 書籍 『恐い絵』 発行から10周年を記念しての開催というわけで、著者が監修に参加している。 開催に寄せた言葉によると、絵の鑑賞に背景知識は不要という考え方へのアンチテーゼとして企画したらしい。つまり、背景知識がある方が、より楽しめるという話。『珈琲の世界史』の「はじめに」でも同じようなことが書かれていたっけ。 歴史を知っているのと知らないのとでは、コーヒーのおいしさの感じ方が違ってくるのです! 引用元: コーヒーはいつから「ウンチク」を語りたくなる飲み物になったのか(旦部 幸博) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) 話を戻すと、「知識があると楽しめる」のはその通りだと思いつつ、その考えは「知識がないと楽しめない」に転じかねない。そうならないよう気をつけたい。あまり考えすぎると、感覚がマスクされる。味覚の場合、ジャムの味について考え過ぎるとかえってわからなくなるという話が、 『錯覚の科学』 であった。そうでなくても、「知識がないと楽しめない」と思う人が増えると、「初心者お断りの空気」ができあがって、間口が狭くなってしまう。 最初は知識がない状態からスタートするのだから、そこに引け目を感じる必要はなく楽しめばいいのだけれど、かといって何も知ろうとしないままでは広がりがない。そういう話か。 実際、ほとんど知識がなくても魅入られるときは魅入られる。本展の目玉『レディ・ジェーン・グレイの処刑』がまさにそうだった。人の列から離れてしばらく眺め続けてしまった。そこから解説を読んで、さらに想像を膨らませたりもするのだけれど、それはその後の話で、どちらの状態がよりよいということもないだろう。 ちなみに 当日の感想ツイートはこちら 。ここ数日タイムラインでストロングゼロの話題を見かけて、『ビール街』と『ジン横町』の絵のことをまたぞろ思い出す。

世界の潮解、理解の迂回 - 赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE

「『赤目姫の潮解』を読んだよ」 「森博嗣先生の新刊ですね」 「グレッグ・イーガンの 『順列都市』 を思い出した。グレッグ・イーガンと言えば、 〈新☆ハヤカワ・SF・シリーズ〉の第2期 で新刊が2冊も予定されていて、楽しみな限り」 「後半無視して話を続けると、そのようにツイートしていましたね」 「経過無視して読み終えたときに残った疑問をそのまま訊くと、意識の連続性ひいては自己同一性って、どう認識されているのかな? 飲み過ぎた時とか、ぼんやりしていた時とか、寝ている間とかって意識があった記憶がないわけだけれど、それでも同一の〈自分〉として続いていると信じて疑わないよね」 「普通は、そんなことを疑ったりはしませんよね。むしろ逆の傾向にあると思います。人は誰でも、自分について自分らしさやセルフイメージと呼ばれるものを、世界についてメンタルモデルや世界観を持っていて、多くの人はそれを守ろうとしているのでは?」 「うん、そう思う。でも、多くの場合そのイメージは、現実をそのまま受け取るわけじゃないし、受け取った後でも記憶には手が入れられる。 『錯覚の科学』 や 『確信する脳』 でそんな話を読んだっけ」 「自己同一性を保つために記憶を改竄するなら、記憶が途切れているのはそのせいという可能性もありますね。例えば、記憶がないという記憶で元々あった記憶を上書きしているとか」 「録音を無音で上書きするようなものか。あるいは、記憶ってそもそも再生されるようなものじゃないのかもね。ストレージからロードされる記録というよりは、思い出す度に現在の自己認識と当時の記憶から再構成されているのかも」 「そのたびごとにただ一つの世界が生まれては、代わりに一つの世界が終焉を迎えているのかもしれませんね」

最初で最後

『最初の刑事』を読んだ。 本書は、1860年に英国で実際に起きた殺人事件を扱ったノンフィクション作品。小説としても読めるので、『冷血』( 感想 ) に代表されるノンフィクション・ノベルだと思う。 綿密な調査の上で書いたのだろうな、と思わせるエピソードが、そこかしこに散りばめられている。そのせいか、枝葉が多くて、幹が追いにくい。 『冷血』のときもそうだったように、あまりはっきりとした印象が残っていないから、この手の作品はあまり合わないのかもしれない。 考えてみると、自分の関心は、このような象徴的な個別の事例ではなくて、平凡な多数の事例から浮かぶパターンあるいは傾向に向いていることが多い。 象徴的な事柄についての鮮明な記憶は、思っているほどあてにならない。『錯覚の科学』( 感想 ) でいうところの記憶の錯覚がある。

No 才能

雑誌 『COURRiER Japon 2011年 10月号』 を読んだ。 今月号の特集『すべては「心理」が決めていた』は前から関心があった分野だから、面白く読めた。 特に面白かったのは、『成功する人に共通する「才能」よりも重要な「心理的な特徴」とは』。 「才能」は、過大評価されている。 先日読んだ 『錯覚の科学』 ( 感想 )では、「可能性の錯覚」と表現している。 より重要だというその特徴は、「根性 (grit)」だそうだ。 最初、この単語から精神論を想像したけれど、もちろんそうではない。 重要なのは、長期間に渡る継続的な努力だ。 「1万時間の法則」を思い出す。 これは。プロフェッショナルになるには、1万時間に渡る方向性を持った練習が必要だという主張だ。 1年365日毎日4時間練習しても、1万時間に達するには2500日≒8年かかる。 これだけの継続は、「やればできる」類のものではない。 実際、この法則を広めたマルコム・グラッドウェルはインタビュー 成功は、1万時間の努力がもたらす:日経ビジネスオンライン でこんな風に答えている。 一つは、「集中して1万時間練習する必要がある」と知ることと、実際に実行することは別であること。1万時間の核心は、それが非常に長いことだ。1万時間の練習を積むためには、10年間はかかるだろう。excellence(卓越)に達するために10年間自分をコミットさせるのは、非常に気が遠くなるようなことである。 これはこれで一つの才能だと思う。

因果の暗号

『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』を読んだ。 でも、どうして、すべてのことに理由がなければならないという考えにこだわるのでしょうか? とかく人間は理由すなわち因果関係を見出しがちだ。 『錯覚の科学』 ( 感想 ) で「原因の錯覚」として紹介されているように、前後関係を因果関係だと短絡することがままある。 だけど、理由がないことなんていくらでもある。苦しいときに何か悪いことをしただろうか? と問うてみたり、苦しんでいる人を見て当然の罰に違いないと邪推してみたり、とかてんで的が外れている。 苦しい時にさらに悩む必要なんてないし、同じ罪を犯しても苦しみを得る人とそうでない人がいる。 頭で分かっていても、苦しいときほど頭がはたらかないし、そのあたりの点でまーままならんよなー。

論理Loneliness - 孤独の価値

『孤独の価値』を読んだ。タイトルから想像できる通り、孤独は多くの人が考えているほど悪い状態ではないという話。 時々こうして孤独が悪い状態ではない――もっと言えば目指すに値する状態であるという入力が必要になる。 そうしないと、ときどき一人でいたくなる自分は社会不適合なんじゃないかという錯覚に陥る。 プッシュされてくる情報は、反対にどれもこれも「絆」や「つながり」をクローズアップしていて、それこそが最高の幸福の形で、孤独こそ不幸の極みだと主張しているように感じられるからだ。物量に流されそうになるから、あんまり真面目に受け取らないようにしないと。 でも、だんだんと一人を許容する方向に向かいつつあると思う。例えば、「ひとりカラオケ」や「ひとり焼き肉」のお店ができたりしている。それから、ボウリングやビリヤードに行くと、一人で黙々とプレイしている人を見かける(ちょっと憧れる)。もうちょっとこういう方向に進んで欲しい、と思う。今は偏り過ぎているように感じる。 それなりの人が、表だってはあまり言わないものの、もう少し孤独を必要にしているんじゃないか、と想像する。「ソーシャル疲れ」なんて言葉が象徴的だ。実際、日本人の「協調性」について調査したら、理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしているなんて結果が出たそうだ [1] 。 一人になりたくなるのは、悪いことでも変わったことでもない。そう思おう。 と言っても、本当に関係を絶ってしまいたいわけでもないのがややこしいところ。現実問題、他人から隔絶された状態では生きていけない。本書でも、「本当に孤立してしまうような恐ろしい状態の孤独」と「静かで落ち着いた雰囲気で創作にも適する孤独」があると言っている。格闘ゲームの『サムライスピリッツ』シリーズの橘右京を思い出す。 好きなもの: 孤独な自分を感じる事 嫌いなもの: 真の孤独 橘 右京:SAMURAI SPIRITS OFFICIAL WEBSITE 孤独と絆、両方に価値がある。でも、巷に溢れているのは、絆を強調する情報ばかり。偏っているよなぁ。 [1] 『「しがらみ」を科学する』 の第5章で紹介されている、著者の研究グループの調査結果。