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Learning Dokusyo - ディスレクシア 親と研究者のためのLD

『ディスレクシア 親と研究者のためのLD』を読んだ。

本書によると、読字の学習を困難にしている原因は、音韻処理過程上にあるらしい(ただし、別の原因で困難が生じることもある)。素人目には、聞いたり話したりと、読んだり書いたりとがそれぞれペアのような印象だけれど、そうでもないみたい。

抽象的に言うと、認知特性と言語の相性の問題だそうだ。極端な話、無文字社会ではディスレクシアは起こり得ない。想像しやすい例を借りると、発音と綴りの規則性が弱い英語圏で多く、規則性の強いドイツ語では少ない。ただし、発音と綴りの規則性だけが影響するのではなく、意味の単位に対する文字の単位も影響するとのこと。意味の単位に対して文字の単位が小さい(英語はこれにも該当)と、困難が生じやすいというのも、想像しやすい。

日本語はディスレクシアが起こりにくい言語とされていた。音と一対一対応のかな・カナと表意文字(意味の単位も文字の単位も大きい)の漢字で構成されている。かな・カナの次に漢字を学習するという順序も、ディスレクシアを起こりにくくしているとのこと。そう言えば、どこかで漢字仮名交じりの日本語が世界で一番難しい言語だいうような主張を見かけたが、学習過程には触れていた記憶がない。

いずれの言語にせよ、常用する言語の音韻処理に問題を抱えているときは、代替戦略で処理すると考えられている。それは個人差が大きいようなのだけれど、その中の一つに自分も使っていそうな戦略があった。音韻ではなく文字を頼りにする戦略がそれ。実験で、"room" と "house" を間違えるような、音の近い語ではなく意味の近い語を選ぶ誤りが観察されるそうだ。

ディスレクシアではないのだけれど、文字があるとつい追ってしまうくらいの活字中毒なので、聞いたり話したりする言葉より圧倒的に読んだり書いたりする言葉の方が多い。だから、文字の方を頼りにしているのかもしれない。文章を書いていると、よくそういう間違え方をする。

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