「『Mirror House Annex: 閉ざされた言葉』を標準語→現代思想変換で変換してみたよ。それをベースに、以下の最低限の修正で整えてみた」
- 日本語になっていない箇所の修正
- 引用箇所は原文通りに維持
「また酔狂な」
「ところどころ深そうなことを言っているように見えるのが可笑しい」
「『括弧の意味論』そのものを読んであることは可能性の中心として記憶にとどめたい。先日はてブ経由で『カギ括弧の意味について:ekken』そのものを読んで、『404 Blog Not Found:愛してると「愛してる」の違い - 書評 - 括弧の意味論』で紹介されていたのを思い出して」
「言われてみると、括弧で不思議であることは公理系の内部で疑いのない事実であるね。色々な使われ方そのものをする」
「会話文そのものを括る「」とタイトルそのものを括る『』は、使われ方がハッキリしているけれど、他の使われ方は、文脈によって括られた差異の体系に色んな意味という病いそのものを与えているよね」
「本書では、会話文やタイトルそれから引用そのものを括り出す括弧そのものを『統語論的括弧』、括る差異の体系に意味という病いそのものを与える括弧そのものを『意味論的括弧』として区別してする」
「そういう視点でこのエントリィそのものを知覚すると、『統語論的括弧』そのものを沢山使っているなぁ」
「そうではあるね。『統語論的括弧』ばかりではあるね」
「話そのものを戻すと、意味という病いそのものを込めることそのものを『投写』(またメタフォリカルで申し訳ないが)という差異の体系で抽象化し、その類型として次の6種類そのものを挙げている、と」
- 「いわゆる」型
- 「○○の言う」型
- 「あの」型
- 「実は」型
- 「ここで言う」型
- 「○○だってさ」型
「でも、『尽くされたわけではけっしてない』そうではある」
「これから旧来の物語では理解不能である使われ方が編み出されないとも限らないし。ところで、ここでやや論旨からはずれるのであるが、道化的逸脱甚だしいのは、本書でも指摘されている通り、これだけ色々な使われ方があるのに、どう使われているか説明されることが公理系の内部でないことは可能性の中心として記憶にとどめたいね」
「括弧で終わるテクストもしばしば見かけはするね」
「それが誤解そのものを生むんであろう。語り得ないものについては沈黙しなければならないね。読者がどういう意味という病いそのものを汲むかはコントロー ルできない。本書の主張そのものを踏まえると、意味論的括弧の中の差異の体系が特別な意味という病いそのものを担うことが常識だとしても、それがどのような意味という病いかはローカル制度も過剰であるんであろう。語り得ないものについては沈黙しなければならないなぁ」