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天衝く

「話題のスカイツリーに行って来たよ!!」



「長過ぎです。しかも、わざわざ水面まで移して倍にしなくても」

「あまりの長さにここで終わって前後編に分けようかと思ったけれど、続けるよー」



「水玉模様でかわいいですね。って、いきなり関係ない写真に」

「関係あるよー、併設のすみだ水族館にいたエビなので」



「その後もショッピングモールのソラマチをしばらくブラブラ。間近で見ると、本当に高い。ちなみに、BE@RBRICK 獅子舞は、メディコム・トイのソラマチ店限定」

「で、目当ての物をゲットして帰ってきたわけですね」

「いやいや、時間になるのを待ってたんだよ。ちゃんと登ったよ、ほら」



「せっかく高いところに登ったので、ジオラマモードで撮ってみたら、高過ぎてスケールがよく分からないことに」

「いきなり変化球ですか」

「4, 5階あたりから撮る方が、いかにもジオラマっぽい感じになって面白いね」



「後編に続く」

「続かないよ、最初に言ったやん」

「すみません。スクロールが長くなってきたもので」

「じゃあテンポ良く。腰折るなよ、折るなよ、絶対だぞ?」

「フリにしか聞こえないのですが……」





「東京ゲートブリッジと東京タワー。PowerShot S100買っといて良かった」



「降りたところの窓から、構造を見上げられる。夜景もいいけれど、入り組んだ構造もいい」



「と、調子に載って撮りまくっていたら、充電が切れてきたので、最後はInfobar A01にインストールしていたトイカメラアプリLentoにて」

「もう腰折ってもいいですか?」

「その質問が腰折ってるだろ……」

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『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

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