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10月, 2008の投稿を表示しています

絶対計算者のバイアス

人間には認知バイアスがある。 絶対計算者とて、例外ではない。 では、絶対計算方程式は、どのように決めるのだろうか? 答えはこれも絶対計算できる。モデル選択の分野になる。 しかし、仮説がなければ、多くの人を納得させることはできない。 結果的によく当たるだけでは、信用を得られない。 面倒くさいなぁ、人間。

道行く先

『ザ・ロード』 を読んだ。 映画ノー・カントリーの原作、 『血と暴力の国』 と同じ作者の作品だ。 『血と暴力の国』と比べると、エンディングがいかにも唐突だ。 突然終わる。そこが良いと思う。 唐突に感じるのは、エンディングだけじゃない。 キャラクタが放り込まれた状況も、キャラクタどうしの会話も、唐突だ。 予兆も伏線も前振りもない。 特徴的な文体と相まって、ミニマルあるいはシャープな印象を受ける。 研ぎ澄まされている、あるいは削ぎ落とされている、といっても良い。 (何といっても良いし、何とでもいえるけれど) それでもじわりと感じるものがあった。 良い小説だなぁ、と思う。 ちなみに、映画ノー・カントリーについては、以前のエントリーー No Country For Old Men で言及した。

CDのジャケットとコンピュータのアイコン

ZERO/天野月子 を買った。 インディーズ・レーベルからの発売だったことを知らずに、レンタル開始を待っていた自分を笑おう。 さっさと買えば良かった。 インディーズ・レーベルからのCDはレンタルされない。 ところで、最近は、気になる曲があったら、公式サイトやMy Spaceなどで視聴できることが多い。 Youtubeでフルレングスを視聴できることも珍しくない。 あと、P2Pで音源を手に入れることもできるだろう。 (その是非はさておき) そのせいか、ジャケットからどんな音楽だろう?  と想像することがなくなった。 想像する前に、視聴ボタンをクリックしてしまう。 一方で、iPodなど今聴いている曲のジャケットが表示されるようになったのは、CDプレイヤやMDプレイヤにはなかった機能だ。 コンピュータ上ではむしろ曲とジャケットの結びつきは強くなっている。 ジャケットが、GUIアイコンの機能を担っているように思う。

データを食べる

Sheedy氏は、「人間が判断するのではなく、アプリケーションがさまざまな判断をする組み込み分析や運用BIといわれる分野での発展が進むだろう」と話す。例えば、サプライチェーンではすでに実践されているように、在庫が一定の個数を切った場合自動的に発注システムが作動する、といったようなものだ。 アナリストが見るBIベンダーの「意味のある買収」と「わけのわからない買収」 - アナリスト - page2 - ZDNet Japan この『一定の個数』を決めるのが、恐らく 『その数学が戦略を決める』 がいうところの絶対計算だろう。 ただ、絶対計算は、計算の対象となるデータがなければ、役に立たない。 よい予測モデルを作ることができないからだ。 従って、以下の指摘は全くもって正しい。 Sheedy氏がBIベンダーの買収で「意義がある」と感じるのは、「情報マネジメントプラットフォームを持っている企業が、そのプラットフォームにBI機能を組み込もうするケース」だ。 アナリストが見るBIベンダーの「意味のある買収」と「わけのわからない買収」 - アナリスト - ZDNet Japan データとモデルは、食材と料理のようなものだ。 モデルを作らなければ、データは役に立たないし、データがなければ、モデルを作ることできない。 そして、食べてみないとプディングの味が分からないように、モデルは使ってみないと、精度が分からない。 一つのアプローチはスモール・スタートだ。 ただ、スモール・スタートは、成果のインパクトも小さい。 従って、魅力的には映らない。 どうすれば、使いたいと思ってもらえるだろうか。 そんなことをつらつらと考えた。

ラスタとベクタ

午前中のエントリ、 正方形、直方体 の続きを、考えている。 無理矢理だけれど、構成単位――Picxel(正方形)とVoxel(直方体)――の対比で捕らえられるかも。 Mirror House 別館: 正方形、直方体 と書いたけれど、以下の文章を読んで、Pixcelは点描か、と思い直した。 興味深いのは、村上隆のスーパーフラット作品がいかにもベクターCGであることだ。各々のキャラクターはトポロジカルな閉曲線に囲まれた領域として定義されている。つまりそれ自体で一個のオブジェクト(物体)で、ドットの集積ではない。 方法 第16号 ゲスト=村上隆 日本語訳 いかにもベクターCGというか、ベクターCGそのものな気もする。

正方形、直方体

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 昨日のエントリ―― 瞳孔の動向 の続き。 左の絵が、昨日描いたものだ。 見ての通り、瞳孔が大きい。 昨日のエントリでも書いた通り、瞳孔にこだわるのは、「絵を見る目がない」からだという意見がある。 「絵が見る目がない」は、「絵を見る視線がない、あるいは無数にある」ことを指している(昨日は読み落としていた)。 つまり、単一視点の否定である。 視点の数 ≧ 0 かつ整数のとき、 視点の数≠1 ⇔ 視点の数 = 0 または、視点の数 ≧ 2 だ。 視点の数 ≧ 2と言えば、ピカソ――キュビズムを思い出す。 あの絵も、単一の視点からは構成できない。 しかし、キューブ=立方体はフラット=平面ではない。 関連はあるように思うのだけれど。 無理矢理だけれど、構成単位――Picxel(正方形)とVoxel(直方体)――の対比で捕らえられるかも。

瞳孔の動向

久しぶりに時間をかけて絵を描いた。 以前から萌え系一辺倒ではなかった(と自己認識している)が、 萌え系の絵を描くことに、楽しみを感じなくなっている。 アイコン化されていることや、大量生産大量消費の対象になっていることが、気に食わないのかもしれない。 自分は基本的にマイナ志向だ。 何てことを言っているが、目は依然としてかなり大きい。 東浩紀は、それを「絵を見る目がない」からだと言った。 僕は、その原因は、実はそもそもアニメ絵には「絵を見る目がない」からだと思うのです。絵を見る目がないからこそ、見られる絵のなかで、目のイメージが過激に膨らんでしまう。 存在論的、広告的、スーパフラット的 しかし、目が大きいのは、アニメ絵に限らない。ウルトラマンも仮面ライダーも目が大きい。 高山宏なら何と言うだろうか? と言うか視覚文化論の文脈ではどう解釈されているんだろうか。

映画とニューラル・ネットワーク

ナショナル・トレジャー2 リンカーン暗殺者の日記 と、 ジャンパー を観た。 観た順番に従って、ナショナル・トレジャー2について。 邦題に時々あることだけれど、副題は限りなく嘘に近い。原題の副題"Book of Secrets"の"Book"はリンカーン暗殺者の日記ではない。 前作は結構わくわくしながら観ることができたのだけれど、今回はちょっと一歩引いて観たように思う。 場所の違いだろうか? 前作は映画館で観たけれど、今回は自宅で観た。あるいは、あちこちへの侵入シーンがすんなり行き過ぎたからかもしれない。 ライリーに一番好感を持ったのは、前作同様。 続いて、ジャンパーについて。 ジャンプをしながらのアクション・シーンが観たかったので、パラディンが出てくるまでがちょっと退屈だった。 期待していたアクション・シーンは、スピード感があって満足。 しかし、パラディン登場以降も、シナリオがとってつけたようで、退屈だった。 ラブシーンとか母との葛藤とか詰め込み過ぎかも。 アクションに特化してくれた方が、自分は嬉しい。 あるいは、グリフィンが主役で、ダーティ・ヒーローだったら、とも思う。 そんなことしたら、制作費回収できなさそうだけれど。 『その数学が戦略を決める』 にあった、興行収入を予測するニューラル予測に、ああいうシナリオを入れるように推奨されたのかもしれない。

数学が思考を加速する

自分のエントリを読み返して思ったけれど、 加速不能 に対する一つの解答が、 犯罪も解決する 数学・統計学・ゲーム理論なのだろうな、と思った。

犯罪も解決する

『その数学が戦略を決める』 を読んだ。 意外と単純な回帰分析が、高い予測精度を示し、専門家の予測を大きく上回るケースがあったことに驚いた。 しかも、そうしたケースは、一つや二つではない。 様々な分野(医療、司法など)でのケースが、本書の前~中盤で紹介されている。 一方、後半では、定量分析と専門家や消費者、つまり社会との軋轢について、書かれている。 この部分は、 『なぜITは社会を変えないのか』 にも通じるものがあると思う。 情報があれば解決する、という考えに心理的抵抗を感じるのは、どういった傾向の人で、その抵抗はどうしたら取り除けるのだろう。 ところで、この手の本の著者は、計量経済学者が多い。 計量経済学について、少し興味が湧いてきた。 本物の絶対計算者や、そこそこまともな絶対計算消費者になるためにさえ、習得すべきツールは他にもいろいろある。異分散性とか除外変数バイアスといった用語も平気で使えなければならない らしいので、勉強してみたい。 犯罪も解決できる し、数字を扱うのは面白い。

技術者でもあるヒーロー

『アイアンマン』 を観た。 『ダークナイト』と違い、勧善懲悪の分かり易いストーリィだった。 真面目に考えると、重くもできる話だと思うが、爽快感重視で、これはこれで良かったと思う。 どちらも正体は富豪なのだけれど、その振る舞いは対照的だ。 バットマンが己の罪に悩み、葛藤するのに対して、アイアンマンは無邪気ささえあり、また判断が速い。 アイアンマンは技術者だからだろうか、とふと思った。 技術者にとって、技術が問題を解決することは、事実だからだ。

加速不能

『世界デジタル情報量は毎年1.6倍増加,2011年には1兆8000億Gバイトに』 CPUの性能は、ムーアの法則に従うかもしれないが、人間の性能には限界がある。速読にも限界があるし、映像や音楽に至っては、消費速度を加速させることはできない。

同窓会とイノベーション

『なぜITは社会を変えないのか』 を読んでいる。 その中に、こんな一文があった。 ある会社の場合には、見開き二ページの機能をつけたことで、自らが「書籍」の真の後継者と公言している。 電子リーダの話だ。 おかしな話だ。 おかしな話だが、このように、既存の文化との連続性を強調することは、悪い戦略ではないように思う。 『イノベーションの神話』 の神話の一つでもあったはず。 また、 『隷従への道』 にもこんな行がある。 人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。 知らないものを面白がるのは、ごく一部なのだろうな、と思う。 破壊的イノベーションが破壊的イノベーションに見えるのは、多くの人からは経緯が見えないからではないだろうか(経緯自体は存在する)。 そういう視点で見ると、「ITは社会を変えている」けれど、変化は徐々に起きており、知覚されていないのかもしれない。 同窓会と同じだ。 久しぶりの再会なら、「変わったね」とか「変わってないな」と言えるけれど、毎日のように会っていたら、何も思わない。

視点を置く位置

『双生児』 を読んだ。 作中では、すべてが語られない。 視点を小説の外に置き、じっくりと読まないと、面白く感じられないかもしれない。 小説に限らず、視点を置く位置によって、見えてくるものや見え方が変わってくる。 読み終わって、ようやくいつの間にか視点が固定してしまっていたことに気がつかいた。

秘密に終わる秘密兵器

今更ながら 『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』 という本を知った。 インタビュー記事―― ITの“戦略的価値”は本当に失われたのか? を読んだ限りでは、著者は、「IT投資によって得られる戦略的価値は、容易に模倣されるから、先陣を切るリスクに見合わない」と言っているように思う。 確かに、あっという間に低コストで真似されるのなら、先駆者は人柱に他ならない。 先行者利益が小さいと言い換えてもいい。 似たようなことを、ガードナーの人が今日のITpro EXPOで言ったらしい。 「戦略によって企業が差異化できる時代は終わった。今後は戦略の実行力が企業の競争優位性となる。その実行力を高めるために有効なのがITだ」 [ITpro EXPO]「ビジネスとITをつなげる」はウソ---マッキンゼー・アンド・カンパニーBTO日本代表の横浜信一氏が講演 ただ、こちらでは、ITではなく戦略がコモディティ化したという風に聞こえる。 差異化が行き過ぎて、ターゲットの市場サイズが、利益を出せる限界に達したのかもしれない。

『ゴーレム100』

『ゴーレム 100 』 を読んだ。 混沌としているけれど、錯綜はしていない。 そんな印象を受けた一冊だった。 この本には、文中に図が散りばめられている。 図によって、狭義の「読む」という行為から離れることになった。 まず、こんなところになぜ図があるのだろう? と考えた。 それから、この図は何を意味しているのだろう? と考え。 しかしこれらの疑問は、答えが出ない問題だし、図が乱用されているので慣れてしまって、読み進めていくうちにどうでもよくなっていった。 そこに意味を見いだそうとすれば、いくらでも解釈のしようはあるだろう。 しかし、文脈は、そんな深読みには意味がないと感じさせる。 一貫して、 深淵なんだか浅薄なんだか、 壮大なんだか卑近なんだか、 論理的なんだか感覚的なんだか、 理性的なんだか本能的なんだか、 よく分からない。 もともと境界なんてないのかもしれない。 二本の平行線も、球面上では二点で交わる。

New Newspaper

面と向かって、新聞社関係者に、「新聞はもう要らない」と言うのには、なかなか勇気がいる。 読売新聞社が15~21日の第61回新聞週間を前に行った全国世論調査(面接方式)によると、情報や知識を得るために、新聞はこれからも必要だと思う人は90%に上った。 「新聞、これからも必要」が90%…読売世論調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 目的は、現状認識ではなく、プロパガンダなのだろうな、と思う。 新聞の発行部数と世帯数の推移 によると発行部数は減少傾向にあるから、両調査が妥当だとすると、『必要だとは思うけれど、買いはしない』という人が増えているということになる。 ネットニュースで十分ということだろうか。 確かに新聞より品質は劣るかもしれないが、通り一遍の情報を仕入れるだけなら十分そうだ。

『境界線上のホライゾン I (下)』

『境界線上のホライゾン I(下)』 を読んだ。 上巻は近所の本屋になくて、あちこち探したけれど、今回はすんなり買うことができた。 平積みしてあったのだけれど、遠くからみたらまだ何冊もあるように見えていたのが、手にとってみたら、残り2冊のうちの1冊だった。 Iからこんなに飛ばして大丈夫だろうか、と思ったけれど、自分の心配することではないので、大いに楽しませてもらうことにした。 と言うか、楽しんだ。7時間ぶっ続けで読んでしまった。 次はいつ出るのだろうか?

続かない話

『ブラッド・プライス』 を読んだ。 原著には続編があるのに、邦訳が出ていない。 話は悪くなかっただけに残念。キャラクタも素敵だったし。 ただ、訳者は変わって欲しい。何カ所か読みにくいところがあった。 まず1巻だけを出版して、売れたら続刊を出版するという戦略だったのではなかろうか。 そうだとすれば、売れなかった、ということだろう。続刊が邦訳されていない。 戦略的には正しいかもしれないけれど、作家には優しくないな、と思う。 このケースの場合、日本で売れなくても、本国では売れているようなので、気にしていないかもしれないが。 それはさておき、イラストに何か見覚えがあると思ったら、 『バッカーノ!』 のと同じイラストレータだった。 ちなみに本文に挿絵はない。扉絵もない。 コストを節約している印象を受ける。

ガチャポン回し過ぎ

スパイダーマン・ガチャポン でそろそろ潮時だ、と言っておきながら、またやってしまった。 残念ながら、シークレットは出てなかったけれど、ノーマルコンプリートは達成した。 揃えるだけなら、セットを直接買った方が安い。 ガチャポンだと、セットの価格以上のお金を費やしても、揃わない上にだぶりが出る可能性が高い。 それでもやってしまったのだから、合理的な行動ではないなぁ、と思う。

ページの呪縛

電子ブックにはページがある。なぜだろう? 本にページが存在するのは、紙で作っているからだと思う。 紙を、巻いたり折ったりするより、重ねて束ねる方が、取り扱いやすい。 本で小説を読んでいるときに、不便だと感じるのは、段落の切れ目がページの切れ目が一致しているときだ。 つまり、ページの最終行か先頭行が、段落の切れ目=空行のときだ。 このとき、しばしば、段落の切り替わりに気がつかず、文脈を見失う。 いくらか読み進めて違和感が閾値を越えると、最終行あるいは先頭行が裏ページと一致しているか、ページを透かし見ることで、確かめる。 この問題は、ページ送りをする限り、電子ブックでも解消されない。 スクロールを許可して、段落単位で送るというのは、どうだろう? そんなことを、米ソニーの発表したリーダを見て、考えた。 ソニー、タッチスクリーン+電子ペーパーの新リーダーPRS-700を発表

『ダイヤモンド・エイジ』

『ダイヤモンド・エイジ〈下〉』 まで読み終わった。 途中、端折られていると感じるところもあったけれど、先が気になって、時間を無視して読み進めてしまった。 大きな変化は、破壊的作用をもたらす。 最近だと、コンピュータやウェブがその代表例だろう。 作品中の例だと、<ラクティヴ>が<パッシヴ>を駆逐している。 このような変化は、たいてい大きな抵抗に遭うと思うのだけれど、それでも変化は起きる。抵抗を乗り越えるファクタはなんだろう? 特にこれといった理由もなくて、幸運が重なって変化を起こした結果だけを見て、理由があると思い込んでいるだけなのかもしれない。

ご一緒に~はいかがですか?

小説は、途中から読み始めることが少ないので、紙でもそんなに不便ではない。 どこまで読み進めたか、さえすぐ分かればよいので、強力な検索機能が必要だとはあまり感じない。 (あれば嬉しいけれど。断片的にしか覚えていない文章を引用したいときとか) 一方、雑誌は目的の記事を真っ先に読むことが多い。 目次から低コストで記事にアクセスできると便利だろうな、と思う。 目下のところ、そうはなっていないらしい。 現在見ることのできる電子雑誌のほとんどは既存の紙媒体の編集やデザインをそのまま電子的な紙芝居にしたものだ。 メディア化するポータルが瀕死の雑誌を飲み込もうとしている そこで、仮に、ウェブサイトと見分けがつかない方向に変化していくと仮定してみる。 すると、「暇なので無目的に他の記事を読む」、というケースが少なくなりそう。 リンクは、目的の記事を掘り下げるコンテンツあるいは関連コンテンツに誘導しているためだ。 では、今の記事はどういう基準でスクリーニングされているのだろう? 何と何が一冊の雑誌という限られた掲載スペースで、ひもづけられているのだろう? 以下は、関連自エントリへのリンク。 主に自分のために。 何で読むか 何で読むか2